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午前十時。いつも比較的落ち着いている時間帯だ。有線ラジオから、古い映画音楽が流れている。何という映画の何という曲だったか、美智子には思い出せない。
華は洗い物を終えると、美智子が声をかけるより先にホールに出て、近所の主婦らしい女性客のグラスに水を足した。ありがとう、と客が会釈し、ごゆっくりどうぞ、と華が浅く頭を下げる。
水のポットを手に戻ってきた華を、美智子はつかまえた。
「華ちゃん、卒業した後は別の大学の大学院だっけ。工学部だったわよね」
「はい。建築科です」
「そうだったそうだった。聞いたこと、何度もあるわね。そうよ、図面というのかしら、あれも見せてもらったことがあるわ。確か、船の設計図」
華はポットを置いた。
「子どものころ、祖父と約束したんです。わたしも祖父と同じ仕事をするんだって。祖父は、造船所で船舶の設計をしていました」
ああ、と美智子はあいづちを打った。たぶん、その話も以前に聞いたことがある。
「おじいさん、喜んでらっしゃるでしょ」
きっとあの世で、と華はうなずいた。
そうだった。美智子は思い出した。華が一年生だった年の晩秋から初冬に、彼女はしばらく実家に帰っていた。祖父が亡くなりました、と告げる電話口の声は凍えていた。
「バゲットは、祖父が好きだったんです」
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