狂愛烈花

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 果たして、初陣より半年ほど後に参じた信貴山城の戦いでは、信長から直々の感謝状を賜うほどに、忠興は活躍した。忠興の右の額に残る傷も、この戦いで拵えた誉れである。  翌年、十六歳の忠興は元服した。忠興の名を使い始めたのもこのときだった。  「忠」の字は、織田家嫡男、信忠の偏諱である。信長によって「忠」の字を許され与えられた忠興は、自身が織田家と同化したかのように感じた。信長こそが真の父ではないかと、恋い焦がれるがごとく崇拝し、恭順した。  信長という烈しい存在に心を奪われた同じ頃、忠興はもう一人、彼が我が父であればと憧れる男に出会った。それが明智光秀である。  光秀は、忠興の父、藤孝と古くから親交があった。先に信長に仕えたのが藤孝で、光秀は藤孝の斡旋によって信長との面識を得たという。それが永禄八年(一五六八年)のことだから、忠興がほんの幼児だった時分の話だ。  信長は見るからに鮮烈な存在であるのに対して、光秀の真価を知るためには、対面して言葉を交わす必要があった。初め忠興は、光秀のことを舐めてかかっていた。藤孝の旧友なのだ、どうせあの冴えない父と同程度の男だろうと高をくくっていたのだ。  忠興の初陣をひっそりと称賛したのが光秀であった。次いで信貴山城の戦いで、忠興は光秀の怜悧な陣頭指揮を目の当たりにし、強く感銘を受けた。     
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