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ぼくは過去に一度、利用者さんとお別れしている。それはあまりにも突発的なできごとで、ぼくは覚悟する余裕すら与えられず、ただ震えながらマニュアルどおりの処置を施して救急車を待つばかりだった。病院で彼の死亡を告げられたのは、隣県に住む彼の家族ではなく、ぼくだった。
今回は、あのときとは違う。少しだけ余裕がある。明日はともかく、木曜には藤原さんと会える。仕事がキャンセルになっても、できることなら、お見舞いに行きたい。
「おにいちゃん」
呼び掛けられて、ぼくはハッとした。妹の麗がこわばった顔をして、ソファに沈んだぼくを見下ろしている。風呂上がりの濡れた髪のまま、手にはドライヤーがあった。ぼくは、急いで笑顔をつくった。
「ああ、ごめん、電話終わったよ。ドライヤー、使ってどうぞ」
麗は右手を口元に持ち上げて、親指に噛み付いた。子どものころからの癖だ。右手の親指の爪は削れて、半分も残っていない。つねに血をにじませていて、痛いに違いないのに、麗はその癖をやめない。
「おにいちゃん、さっきの電話、何? 明日の仕事、キャンセルなの?」
「うん。利用者さんが入院しちゃってね」
「ちょっと聞こえてた。肺炎? 朝綺、人工呼吸器を付けるの?」
麗は張り詰めたまなざしをしている。十七歳。綺麗になったなと、不意に思った。あどけなさは残っているけれど、兄の欲目を差し引いても、麗は美人だ。
「朝綺じゃないよ。午前中に訪問する先の、藤原さん。深刻かもしれないって、今の電話で聞かされた」
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