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アイツ、真田千景との出会いは、傘の取り間違いだった。
新卒で入社10年目の私は、小、中、高、大と私立女子校育ち。
30代にして男性経験がなく、会社では存在感の欠片もない。見た目も白シャツにグレイやベージュのクロプトパンツという、どこにでもありそうなOL服に、164センチの背丈を隠すため黒のペタ靴スタイル。髪はボブにして最低限、アレンジする必要性のない髪型。だからといってショートのような顔を主張する髪型は避けた。
そう、私はひたすら静かに目立つことなく、与えられた仕事を可もなく不可もなく粛々とこなすことをヨシとしていたのだ。
そんなある日。
私は傘を取り間違えて、帰路についた。
それは、目立たないように生活してきた私にとって、今後を左右する一大事だった。
私の傘は地元の商店街で見つけた、青のビニール傘だ。青は珍しく、そこがお気に入りで、唯一この会社でのアイデンティティーだった。
なにか、胸を張れるようなそんな優越感すら感じさせてくれる存在。端から見れば、大したことのないことでも、当時の私にはそれは町中で初恋の人の名前を叫びながら歩いているような、どこか恥ずかしく、でも見て欲しいと言う自己顕示欲の現れだったのだろう。
青のビニ傘は社内の傘置き場にはないはずだった。女性社員は花柄やドットの傘を置いていたし。男性陣はチェックや黒のシンプルな傘か、透明のビニ傘が大半を占めている。
会社から片道1時間、最寄り駅についた頃に携帯電話に見知らぬ番号からの着信。
訝しがりながら出てみる。
「あ……帰ってるとこ、ごめん。俺、総務課の真田だけど、滝さん、俺の傘持っていってない?」
千景は、隣の部署の先輩だった。
話したことも、電話の取り次ぎや必要最小限のものだけだ。印象は背の高い細身の年上であろう先輩といった具合。電話番号は残業中の私の後輩から聞いたようだ。余計なことをと、苛立ちが湧き上がる。
「えっと……自分の傘だと思ったんですけど……」
「傘の天井にプリクラ貼ってない?」
見上げると、そこには確かにプリクラが貼ってあった。3才くらいの女の子のプリクラだ。
「あります……すみません」
じゃあ、今から取りに行くね。と、躊躇なく言ってのけた千景にドキリと胸がときめいたが、彼は極度の方向音痴で、二時間たってやっと最寄りの駅に着いた。
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