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夏だというのに、帰宅早々袖なしの綿入れ半纏を着た老人が、吉野にたずねた。
「ええ、ネットで見たんです。ずいぶんきれいな淵があるようですね」
いろりの熾火を火箸でわずかに崩すと、長井老人は白くなった眉毛をへの字に曲げた。
「感心せんな。海上は険しいところだぞ」
「かいじょう?」
「ああ、そこの地名だ。山なのに奇妙だろう。海のものが、山の中にあるからだろうな」
「貝の化石でも出るんですか?」
ま、そんなとこだと老人は答えた。太古に海から一気に隆起した山脈ならば、山の中で貝や魚の化石が見つかる。ヒマラヤや北上山地のように。
そんな場所だからこそ、自分の求めるものがあるのだという根拠につながるような気がして、吉野は長井の話に耳を傾けた。
「あそこはゲートの向こうだ。立ち入り禁止だ。おれも前に行ったのは、ずいぶん前のことだ。それも営林署の連中に道案内を頼まれてな。勝手には入らん」
吉野は思わず背後の窓から、ゲートがあるという裏山をのぞき見たが、さっきまでの夕日はすでに幾重にもかさなった山の向こうへと沈み、闇がひろがるばかりだった。
「何年かまえに、誰か来ませんでしたか?」
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