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母は、私を百音と名付けた。
「絵に音はない。だけどあなたは、音が聞こえる絵を描きなさい」
母は美術教師だ。
「あなたは絵を描くために生まれてきたの」
仕事だけではあきたらず、家に居ても私に絵を描くことを強いる。
「あなたは誰のために描いているの?」
私の絵が母の望みに届かなければ、そう問われる。自分のために絵を描いたことはないと言い切れる。強いられても、絵を描くのは好きだった。
まだ何にも描かれていないキャンバスを見つめていると、穏やかな水面に葉から滴る雫が落ちるようにして、心に波紋が広がり始める瞬間がある。そのときに私を満たす万能感。描き始める時がもしかしたら一番幸福かもしれない。
それにくらべ描き上げた後のあの失望に近い感覚。
私は何のために描くのだろう。
結局、母の期待にこたえて、美大に通っている。後二年で卒業だ。私は母と同じように美術教師になるのだろうか。
母は芸術家になれずに仕方なく美術教師をしている。自分の叶えられなかった夢を押しつけてくると、心のどこかで母をバカにしてきた。
だけど最近気づいた。私は美術教師にも、きっとなれはしない。
芸術家にもなれず美術教師にもなれず、美大を卒業した私に就職先があるんだろうか。フリーターをしながらコンクールに応募して……そうなっても私は絵を描くのだろうか。
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