明けの明星に浮かぶ下弦の月

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「贅沢だな」 日曜の昼下がりの例のプライベートガーデン。 初めて明るい時間帯に此処を訪れたが 庭には色とりどりの額紫陽花が咲き乱れ 昨夜の雨の雫が額の上で光の珠となって輝いていた。 傍らでは千歳がピアノを弾いている。 心地良いジャズを奏でている千歳の指先を見ているだけで 酒など無くても充分酔えるほどの甘く優しい気持ちになる。 「ピアニストによる俺だけの為のリサイタルとは」 ホールに新しく設えられた大きなソファは ピアノに合わせたオフホワイトで、 180㎝以上ある俺が足を伸ばしても悠々と横になれるほどの大きさ。 送り主はなんと美夜さん。 もう流石だとしか言いようがないこのお礼は 今度花束でも持って千歳とご機嫌伺いに出向くしかないだろう。 そして美夜さんの思惑通り……。 音楽は畏まらないでくつろいで聞いて下さいという 千歳の言葉に甘えソファに横になった姿勢で ピアノを弾く千歳の姿を眺めたり読書をしたりと 恋人と過ごす穏やかな至福の時間を味わうのに この贈り物以上に最適なモノはない。 「俺はプロじゃないですよ」 「今はね」 「…………」 「指の動きはずっと前に聞いたあの時と変わらない。 会社員になった後もずっと練習していた証拠だ」 「……随分、鈍っています」 「俺にはとても綺麗な音に聞こえるけど 千歳ほどの腕を持つ者には違って聞こえてるんだろうな」 「九方さん、絶対音感がありますよね?」 「絶対音感?」 「例えばこの音」 千歳が徐に和音を鳴らした。 「レ、ファ……もう一つは、ラっぽかったけど 少しだけ高く聞こえた気がする」 「正解はラ♯です。耳が良いですね。 和音を聞き分けるとか、そうそう出来るものじゃないですよ」 「普段から千歳の音を聞いているせいだよ、きっと」 千歳はコレって幼い時に培われるものですからと笑った。 会社で見せる顔とは違って本当に楽しげに。 「好きなんだろ? 昼間会社員として働き夜は寝る時間を削ってピアノを弾くくらい。 ―――ピアニストに戻らないか?」 ピアノが止まった。 「もしかして父にそう言うよう頼まれたんですか?」 「ああ」 「…………」 千歳はこちらに向けていた視線を無言でピアノへと戻し 再び演奏を再開した。 「……ね、千歳。 俺が自身で納得しないことに 応じる性格じゃない事は千歳が誰よりも知っているだろう? 本気で思ってなければ例えお前の父親の頼みだからといって 易々従ったりはしないさ」 「……ええ」 「言われるまでもなく俺もそうして欲しいと思っている」 ピアノの演目がジャズから俺の好きな演奏家、リストへ変わった。 「こうして聴くと改めてそう思う。 千歳のピアノは欲目でなく格別だ、 俺だけが聴いているのが申し訳なく思える。 この音色を皆に知って欲しいんだよ。 それとも俺の恋人のピアノは最高だと誇られるのは嫌か?」 「そ、そ……いう」 「本当に好きなことを諦める必要はない」 「でも……」 「……心配しなくとも俺達の関係は何も変わらない。 俺と同じ道を歩かなくていいんだよ、 今度は千歳がしてくれたように俺がお前の人生に寄り添うから」 「九方さん」 「千歳のピアノが好きだ」 千歳もだろう?と目で問うと静かに頷いた。
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