その1 ある男

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どうやら私は、人の顔を覚えるということが苦手なようだ。  それは、他人と付き合うことが嫌いとか、そういった抽象的な意味合いではなく、単純に、物理的な意味合いで、人の顔を覚えられない。実の親ですら、輪郭・目鼻のパーツがぼやけて浮かぶものだから、例えば仕事で「先日お越しいただいた○○さん」なんて言われた時には困ったことになる。  そんな私の初恋は、忘れもしない、中学三年生の時。  無事に高校受験を終えた私は、受験勉強の反動か、何をするでもないぼーっとした毎日を送っていた。ある日、少々夜更かしをして、「面白い番組でもないかな」なんてテレビのチャンネルを回していた。ポチ、ポチ、ポチ…とチャンネルを変えること6回目、忘れられない衝撃的な出会いをした。  ブラウン管の向こうに映るのは、東洋風の服を纏い、長く伸びた青い髪をなびかせる女性。一瞬で、その女性に私の心は奪われた。後に、この女性が宇宙海賊で、七百歳で、宙を浮いたり壁をすり抜けたりすることが出来ると知ったが、そんな設定はもはやどうでもよかった。人の顔を覚えられない私にとって、三次元の女性も、二次元のアニメキャラも、ブラウン管越しに見る分には大差ない。つけ足しておくと、三次元よりも二次元の世界を愛するような趣向は私にはない。  心奪われたのは、その声だ。ブラウン管の中にいる女性の、さらにその中にいるだろう女性に私は恋に落ちた。清潔感がありながら端々は官能的に。包み込むような母性をベースにしながら、どこかボーイッシュな味付け。獅子を連想させるような力強さの中に、子猫を思わせるような孤独感。ちょっとハスキーで、ちょっと甘ったるいその声に、私は肋骨の内側を素手でまさぐられたような感覚に襲われた。  あっという間に三十分が過ぎ、番組が終わったが、私は衝撃でソファーから立ち上がることすら出来なかった。 目を瞑る。もうその女性の顔は全く思い出せない。だが、その声が、脳内で何度でも反芻出来る。もう一度、もう一度と脳内再生される度、その音声は私の体内でどんどん昇華されていく。それはさながら、薄い小麦粉の生地に、フルーツが乗り、クリームが乗り、チョコレートが乗り、そうして自分好みのクレープが生まれるかのように甘美なものになっていく。そうして、私の耳と脳内は、今まで経験したことのないような幸福感に満たされ、気付いた時には空が白み始めていた。
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