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アパートまで行くよと言われていたので、取り敢えず外出できる服に着替え、約束の六時半までの残り数分をベッド上で待っていた。下で車の音がしたかもしれない、しばらくするとチャイムが鳴る。コンポの時計は、ジャスト18:30。因みにこの時計は、一分早い。
「おす」
軽い挨拶が飛んでくる。
慧斗は出迎えようと腰を浮かしたまま、彼に掛ける言葉を探し、結局は見たままのことを言うだけになった。
「珍しいですね……」
「ん?」
「スーツ」
ふっ、と乾が口元をほころばせる。細身のシルエット、黒っぽいダークスーツに白いシャツ、ネクタイは渋めのドット柄の、ややクラシカルなコーディネートだ。営業部署にいた頃はともかく、技術開発部に戻ってからは、ここまできっちりとスーツを着る機会は減ったはずの彼だ。
「今日、何かあったんですか?」
出張とか、会議とか。乾はやはりにやりと笑うと、
「今日、これからあるんだろ?」
大きな紙袋を掲げてみせた。
「ここに、コスプレグッズが入っています」
「えっ……」
固まる慧斗に構わず、ガサガサと中身を取り出す。ベッドの上に並べられたのは、しかし、ごくノーマルなスーツの上下だった。
「……びびった」
正直な感想が、これ。
「メイド服かと思った?」
「や、まあ……どうやって拒否しようかなって、一瞬」
「メイドも捨てがたかったんだが」
「捨ててください……」
心から言ったのだが、乾は面白そうに肩を揺らすだけだ。それからスーツに視線を落とし、生地を手のひらで撫でた。
「ドレスコードにひっかかるでしょう、メイド服は、たぶん」
「ドレスコード、って」
「スーツ着てなきゃ食えないメシ、食いに行くよ」
やはり黒っぽい、ストライプの入ったスーツ。それだけではなく、紳士服のセット販売よろしく、シャツにベルトにネクタイ、タイピンまである。ただし、「お値打ち価格」のスーツと明らかに違うことくらい、自分にだってわかる。だって、生地、厚いし。
「……まさか買ったとか、言う?」
「言わない言わない。時間なくてさ」
時間があったら買っていたような、危険な言い方だ。
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