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どこに何があったか、ほとんど覚えていた。初めて来た日から、変化はなかった。薫は、無駄のない動線ですべてを配置していた。
前にも言われた。
「無駄な努力はしない」
俺と一緒に過ごすことを無駄だと判断したのだろうか。目を閉じ、ため息をついた。
薫は、今どこにいるんだ?
考えてみれば、明日にでも、薫の事務所に顔を出せばいい。理由は、何にしよう。すぐには、思いつかない。
ひとまず、すべての部屋を見てみることにした。リビングに明かりをつける。
部屋の真ん中に紙が落ちていた。近づいていく。引っ越し先や電話番号が書いてあるかもしれない。紙の前にしゃがんだ。四つ折りにしてある。手に取った。
開いていく。
そうだ。しばらくみていなかったが、薫の字は子供みたいに丸かった。
自分の中にある弱さや幼さや愚かさをひた隠しにしても、字に現れている。
そのうち俺が来るとふんで置いていったのだろう。
『私は、あなたの唯一の存在になりたかった』
唯一とは、どういう状態をさす。
俺は、十年も薫以外の女を必要としなかった。
それじゃ、足りないのか?
明日、事務所に行くのは無駄だと悟った。
その後調べてみると、薫は、大阪弁護士会から、退会していた。事務所は三ヶ月ほど前にもう、辞めていた。あの晩にはすでに、消える準備をしていたことになる。
どこにいるのか見当もつかない。
ありきたりな名字に、そう珍しくもない名前をしている。実家のだいたいの場所は知っている。行けば会えるだろうか。薫がこんな消え方をして、簡単に見つけられる場所にいるとは思えなかった。
生きていくために、そのうち、どこかの弁護士会には登録するだろう。
子供ができていれば一年先になるか二年先になるか、それでもいつかはみつけられる。
俺の居場所は、わかっているのだ。気が向いて、会いに来てくれるかもしれない。
薫は言った。
「私の遺伝子が、あなたの遺伝子を求めているだけ」
欲しかったものを手に入れて、満足しているんだろうか。
この十年、俺たちをつないでいたものは何だったろう。
それは、きっと……愛ではない何かだ。
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