それは愛ではない何か

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 九時過ぎには事務所を出た。家に向かいながら、居留守を使えるアプリがあるのかもしれないと思いついた。  俺が家に行かないから、拗ねたのだろう。女は、男の性欲を甘く見過ぎている。もう、生殺しの覚悟は決めたので、そのまま向かった。  マンションについた。一応はインターホンを押した。反応はない。ここで出る気なら、電話でも出ているなと思い直す。  鍵をつかって、マンション内に入る。エレベーターで上がっていく。  十年通って、自分で鍵を開けるのは初めてだった。  まず謝ろう。  食事だけでも誘えば良かった。  薫も俺も二時間も縛られるのが苦痛で映画は観ない。俺は絵を鑑賞するが、薫はあまり興味を持っていない。音楽の趣味も合わない。スポーツはしない。共通の話題は判例か……。  ここ七年は酒を飲んでするだけだった。  中に入る。  薫の部屋にはあまり生活感はなかった。モデルルームのように過不足なく家具が配置されていた。こちらの大学に進学したときから、親に買ってもらった部屋で優雅に暮らしていた。  玄関に有ったはずのガラスの花が無い。  明かりはついた。  俺は上がって、奥へと進んだ。  突き当たりのドアを開ければリビングだ。  レバーを握る。やけに冷たい。押し下げドアを開けた。  カーテンも何もかかっていない大きな窓から、隣のビルの明かりが見えた。 隣のビルの窓を一つ一つ目で確認していく。ほとんどのブラインドが閉じてある。一つだけ、中が見えた。机が並んでいるが人は見当たらない。腕時計をみる。もうすぐ十時になるが、まだ多くの窓から部屋の明かりが漏れている。  この目の前の状況に、考えられる可能性はいくつあるだろうか。  新手のドッキリかもしれない。寝室以外にも部屋はある。リビングの家具を隠して俺を驚かせようとしたか?  それには、協力者が必要だ。そこまでして驚かせる理由などどこにもない。  確実に、引っ越している。  拗ねてやる悪戯にしては大掛かりだ。この調子なら、携帯は解約したのだろう。  何のためだ?  リビングの入り口から、一歩も動けなかった。  この部屋は、こんなに広かったか?  先月の東京出張は嘘か?  いつまで、ここにいた?  子供は、できたのか?  俺は父親になりたいと言わなかったか?  薫は、了承したんじゃなかったのか?
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