それは愛ではない何か

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 俺たちの間に、前置きはいらない。 「人見靖彦を知っているだろう?」 「事務所に飾ってある青い絵を描いたあなたの友達でしょう」  俺は頷いた。 「あいつが死んだ」  薫が、固まった。予想できるはずはない。 「五月の中旬に入ってすぐだ。最初にワインバーの誘いをもらった頃から、そのことで動いている」 「ごめんなさい」  薫が謝るのは珍しい。 「そんなことがあったのなら、いつもと違うのも納得できる」  薫はそれ以上は何も訊いてこなかった。  黙ってコーヒーを飲んでいる。  人見のことは写真でしか知らない。みたとき「頭良さそう」と言ったのをおぼえている。  今、何を考えているか想像もつかない。顔をみていた。  薫がコーヒーカップを置いて、俺をみた。 「隣に行っていい?」  だめだという理由はない。だが、わざわざ訊かれると一瞬、考える。断ったとすれば、理由を問われる。理由がないのだから、薫が隣に来るという結論はかわらない。 「好きにしろ」  ソファには余裕がある。それなのに、俺に体を寄せて座る。甘い匂いがする。 「ねえ、泣いた?」 「そりゃあな」  薫が俺の肩に頭をのせた。 「あなたの涙、みたことない……」     
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