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夏のうちに進路の決まってしまった孝は、高校の友達が受験勉強に勤しむなか、ひとり故郷の季節を楽しんでいた。東京へ移ってしまえば、この列車に乗ることもない。この駅に来ることもない。この列車は街に続いているけれど、東京にはもっと大きな街がたくさんある。自分の知らない、数多くの街。―― 期待と同時に、自分の記憶がすべて塗りつぶされてしまうのではないかという不安を孝は感じていた。
孝は今日も、ホームで列車を待っていた。
線路の向こうには、今日もあの人がいた。
その人はいつも、どこを眺めるともなくぼうっとしていて、銀色に染めた短い髪の毛を揺らしていた。
吐きだす煙に、輪郭が溶ける。そして、孝の視界が戻りきる前に、今度は通過列車がその影を掻き消した。孝のいる側のホームにも列車が到着し、停車したが、孝は乗らずに見送った。あの人の影をふたたび見ずにはいられないという気持ちになっていた。
現れたベンチに、その人の影はなかった。風が吹き、紅葉が舞う。
空から声が聴こえた。声をたどって顔を上げると、ホームを連絡する橋の上にその人がいて、欄干に身をもたせ、煙を吐き出していた。
その人が自分を呼んでいるような気がして、孝は吸い込まれるように、足を踏み出していた。
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