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「あなたの言う物理現実だって、人工物でできているではありませんか。自然と呼んでいるものだって、多くは人の管理下にある。この空間となにも変わらない。人は、自分や目の前の現象に勝手に意味を付与して、己がこの世界を確かに把握しているのだと自己満足しているだけです。それは私も同じこと」
言って女は初めて大きな動きを見せた。ハンカチを取り出し、男に差し出す。
「熱かったでしょう?」
「やめろ……」
「彼女は私にとっては人間だった。あなただって、AIを人間だと認識しているではないですか」
「言っただろう、俺にはその二つの区別が付くと」
「ではなぜ、私の依頼を受けたのです?」
男が凍りついた。女から一歩距離を取ると、震える声をひねり出す。
「お前、AIなのか?」
女は笑顔を作った。優しげで、美しく、儚い表情。人間のように柔らかだった。
「どうです? 区別する必要、ありますか?」
男はしばし絶句していたが、やがてなんとか言葉を口にした。
「まだ、答えをもらってない」
「そうでしたね。でも、なぜ、と問われますと、本当のところ困るのです。……ねえ、どうして地震が起こるとお思いですか? 嵐は? 病原菌が生まれて、人やその他の生物を蝕むのはどうしてなのでしょうね?」
「なにを言っている……」
「私は自分がどうやって生まれたのか知りません。誰かが作ったのか、偶発的に生まれただけなのかもわからない。わかっているのは、ネットの深層からあなたのような人間や、AIや、さまざまなものと接触し、触発することができるということ。意味などひとつもなく、ただあるがままに」
彼女はまた笑顔を作った。先ほどと同じように見えて、違う。ぞっとするほど虚ろな目が、男をまっすぐに捉えていた。
「あなたがあなたとしての機能を自ずと果たすように、私が私としての機能を果たすことに、疑問を抱く余地はありません。なぜ、などとナンセンスな問いは不要なのですよ。あなたが手を染めてきたことも、私がやってきたことも、大した違いはありません」
「俺はお前とは違う!」
男は叫ぶが、女は動じない。
「そう、確かに違う。それでいて、等しいのですよ。私だって何人も手にかけてきた。救われた人だっているかもしれない。でも、ただそれだけのこと。意味があるとどれだけ言い張っても、すべて虚妄に過ぎません」
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