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そして嫌に冷静に告げた。
「じゃあ、離婚はしません。それがあなたの望みなら、私はそれを叶えたりしませんから」
真は立ち上がり、旅行鞄を持つと、何も言わず家を出て行った。
隆子はそれから数日間、仕事を休んだ。ろくに食事もせずにぼんやりと過ごした。
母のようにはなるまい。十代の頃から胸に刻んでいたことだ。父、浅井幸一は化学の研究者だった。関西の大学に単身赴任中、教え子と道ならぬ恋に落ち、妻子を捨てた。が、母信子は、夫がいつか帰ってくると信じ、なかなか離婚には応じなかった。十分な仕送りも期待できなかったというのに、大学教授の妻という地位に固執し、服装や夫人同士の付き合いに気を遣っていたので、外見と実際の生活には開きがあった。無駄な出費が嵩むのに、信子は外で働くことをしない人だった。
「あの人は一時の気の迷いなだけ。相手とは遊びに過ぎないの。戻ってくるわ」
信子の呟きを何度も聞いた。それは自分自身に言い聞かせているような響きだった。愛人が発覚してから六年後に離婚が成立したが、母はまだ言っていた。
「あの人は騙されたの。あの女に騙されたの」
慰謝料の支払いと、新しい家族のために幸一は大学を辞め、大手洗剤メーカーの開発研究者となった。
離婚後、信子はやっと化粧品のセールスレディとして働くようになった。次第に仕事に生き甲斐も感じるようになり、明るさを取り戻した。母が幸一に関する一切を口にしなくなった時、隆子は高校生になっていた。
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