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「お前の家、何処だって聞いてんだよ」
深夜一時、佐藤を担いでタクシーを探す。
「うっさいわねぇ、ネバーランドって言ってるでしょう」
「畜生、今すぐ車道に投げ出してやる。そしたらネバーランドだろうが夢の国だろうが好きなところへ行けるだろうさ」
「っさいわね、あんたって本当うっさいわ。この通りを二、三キロ歩けば着くわよ、ネバーランド」
「そんなに歩きたかねぇよ」
ふと、思い当たって、財布を覗く。五百円玉が一枚と、十円玉が二、三枚。この酔っ払いに至っては、財布すら持っていなかった。
「本当にこの通りを二、三キロ歩きゃ、あるんだろうな、ネバーランド」
「言っとくけど、私あんたにだけは嘘つかないのよ」
「そうかよ」
また悪態をつこうとしてやめる。さっきの彼女の目の奥の光が、一瞬だけ頭をよぎったからだ。
そのまま佐藤は黙り込む。時折隣を過ぎてゆく、車の音と猫が喧嘩する声以外、何も聞こえなくなった街。みな僕を置いて何処かへ消えてしまったんじゃないかと思えるぐらいの、孤独が夜に浮かんでいる。
「自分がね、空っぽなんじゃないかって、思っちゃう時がたまにあるのよ。産まれた時から、今までにかけて、時間の中に少しずつ、何かを置いてきちゃったみたいな・・・」
孤独に寄り添うような柔らかい声で、彼女はポツリとそう言った。
「おセンチとはらしくねぇな」
「うるさいわね、女の子がこういう風に切り出した時は、聞いてるふりでもしながら、聞き流すべきところなのよ?」
「そうかよ、ご教授ありがとう」
佐藤は「ふん」と言ったまま、少しの間だけ黙っていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。もちろん僕は、それを黙って聞いている。
それは彼女の過去の全てだという、初めての男とかつての話。
「親も大っ嫌いだったし、同級生のお友達ごっこもクソ食らえってのよ」そう言って彼女は僕につかまっているのとは反対の腕を振り回す。
「どうしようもない男だったけどね、彼だけは今もね、忘れられないのよ」
彼女は項垂れ、アスファルトに話しかけるように言う。
「木田っていうんだけどね。その時はその木田だけが、この世界で特別な存在に見えたのよ」
やがて、彼女は語りだす。悲しげに、そしてどこか優しげに。それだけで、彼女にとっての遠い記憶は、大切なものだということがわかる。
その後で、彼女は一人一人、その木田の類似品の話をし始める。彼女が時間の中で求めたものが、求めるほどに、遠ざかる。そんな彼女の青春を、僕は黙って聞いている。
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