今も、忘れない

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 私が夜中にふと目覚めると、隣で寝ている妻から一切の寝息が聞こえなかった。妻はいびきなどはかかないにせよ、細切れな眠りの合間に聞く妻の存在に私は幾度か心安い思いをしていた。なのにそれが聞こえない。その違和感に動転し、妻を揺り起こそうとしたが、当然のごとく妻が起きることはなかった。そして動転の治まらなかった私は、救急に電話するという機転に恵まれず、人工呼吸と心臓マッサージという手段に出た。時間は深夜の三時を過ぎたころだと思う ( なぜかこの時間によく目覚めた ) 。私は叫びたい気持ちが盛り上がってくるのを感じながら、素人なりに必死にマッサージと人工呼吸を繰り返した。始めると吹きだしてきた汗も拭わず、薄いカーテンの先にはまだ真っ暗い闇が広がっていた。自分自身の荒くなっていく息と、うめきと呼ばれる声を口から漏らしながら繰り返し繰り返し行い続けた。  妻が息を吹き返すことはなかった。それでも私は繰り返し続けた。体力が限界を超えても疲れを感じることはなかった。むしろ体力が尽きていることに気付いたのはだいぶ後だ。繰り返し繰り返し心肺蘇生を続けながら、ふと思い出されたのが妻との出会いだった。極めて淡いその映像と現実のそれを同時に目に写しながら、私は繰り返していた。映像は出会いだけでは終わらなかった。妻と初めて二人きりで出かけた日の事、付き合うきっかけ、人工呼吸と全く違う甘やかな口づけ、初めての旅行や結婚についてのいきさつや、後に起きた失敗や些末なケンカまで。私は体を動かしながらその映像を眺め続けた。それとともに長い夫婦生活の中でしぼんでいった風船に私は気付いていた。どうしようもないと思っ た。しかし妻が死んでいく中で ( たぶんもうこの時にはすでに死んでしまっていたのだと思うが ) 、そのしぼんでしまった風船が私にはあまりにも理不尽に感じた     
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