今も、忘れない

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。きっとそんなはずはなかった、と私は思いたかっただけだったのかもしれない。それでも繰り返し行う心肺蘇生で私はその理不尽に抗っていた。映像は流れ続ける。この世に生まれて初めて感じるような喜びも、悔しさだって妻と分かち合ってきた。些細な幸福に震えることだってあった。それがこの時、私の目の前にすべてあった。繰り返し妻の口に空気を送り続けながら、私はそのしぼんだ風船に少しずつ空気が入っていくのを感じた。今だって支え続けてくれるのは妻があったからこその私の人生だ。毎朝の食事も夜も、たまに作ってくれた弁当も、一つ一つを思い出さなくてもこの瞬間すべてを口にしたかのように思い出される。私は空気を 送り続ける。手がふにゃふにゃになっているし、腰が重責に耐えきれずおかしな形に曲がっている。それでも私は心臓マッサージと人工呼吸を止めないでいた。  そのまま二時間ほどが経っただろうか、カーテンの外が闇から薄い青色に変わっているのがわかる。私はもう出る汗もなく、マッサージというよりも胸を撫でているだけのようだったかもしれない。もう声も出なかった。そして映像も途切れがちになり終わろうとしていた。私はふと気付いた。この瞬間に見ていたものは二人の走馬燈のようなものだった。二人の関係が生まれ、死ぬまでを私は今一度体験したんだと私は思った。妻がいた人生。波乱万丈と呼ぶほどのドラマはなかったかもしれない。しかしそれが幸せの中にあったことを私は強く感じた。こんなことになってからしか気付けない私を許してほしいと思った。とても静かな部屋で目から涙があふれ出た。いつの間にかしぼんでいた風船が、出会った 頃のようにぱんぱんに膨れているのを感じた。妻は静かに死んでいた。     
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