二章

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「ああ、その話か。あの時は、リュート以外の荷物の全てを放り投げて必死に逃げたさ。夜中に見つかって間一髪ってな。夜通し走って朝日を迎えたよ。ホント、良く死ななかったものだと神様に感謝したものさ」  盗賊に襲われるなどという経験はもちろんないだろうが、クリスは自身の脳内にどれほど屈強な盗賊をそろえたのであろうか。暗がりでもハッキリとわかるほど顔を青くして、小刻みに震えていた。 「……夜中、怖くて眠れなくなっちゃいそう。でも、リュートは手放さなかったんだね」 「リュートは詩人としての武器であり、誇りでもある。そう易々(やすやす)と手放すことはないさ。それに、このリュートは師匠から貰った大事な物だ。俺の命と同じく、代替えはきかない」  ノートは隣に置いているバッグからリュートを取り出し、ボディをそっと撫でた。 「そっか。本当に、大事な物なんだね」  師匠には様々なことを教えてもらった。無理を言って弟子にしてもらい、生き方を教えてもらい、苦楽を共にした。リュートは弟子の時代から譲り受けたお古であり、年季ものだ。あまりにも長く使用しているため、劣化が起き、今すぐにでも新しい物に変えるべきだとは分かっている。それでも、リュートを取り換える訳にはいかない。手放す事は出来ない。 「ああ、本当に、大事な物なんだ」  ノートは弦を軽く鳴らし、音の調子を確かめた。 「……クリス。何か聞きたい音楽はあるか? 語りではなく、楽器を弾きたい気分でな」 「音楽……。なら、今夜の雰囲気と、景色に合う音楽がいいな」  ノートはクリスの言葉に頷くと、合図もなくスローテンポでリュートを弾き始めた。 弦楽器の優しい音色と夜の闇が一つの音楽となり、混ざり合う。一帯を神秘的に染め上げるノートの演奏は、透き通る白い絹のように美しい。演奏者がいることを知らない旅人であるならば、この音楽は月のウサギが奏でているのだと錯覚するほどに。  広い広い月夜の大地の一角で奏でられるセレナーデは、ノートが飽きるまで演奏され続け、クリスは彼の様子と夜景を交互に眺めて微笑むのだった。
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