ライナスの左手

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さみしさだとかやさしさだとかを、色付けて美しく虚飾して押し付けるだけなら容易いから。 さっき過ぎたヘッドライトの前にゆらいだ影がよく知ったものだと解りながら、それを呼び止めなかったことや、そういえば名前もまともに教えあったこともなかったな、とまだふらつく頭で考えて、そこから、あいつのよく聞いていた歌を思い出そうと躍起になっていた。 夜風に混ざったぬるいブレーキの音が、おかしそうに鳴る。 靴も鞄も注射器も、あいつを示すものが誰もいなくなったシェアハウスとは名ばかりなボロアパートの一室。 換気されていない部屋特有の澱みきった空気から、薬品の臭いや、焦げた跡、そんなふうに蔓延する様々な、雑多に混ざり合ったにおいの中から嗅ぎ慣れたあの甘い煙草のにおいを探し当てるのは、容易いことだった。なのに、そこに対してなんの感情も持てないことが虚しかった。 やはり乾いている眼球に指先を当てて無理矢理に泣いてみようとしたけれど、荒れた指先に気がつくだけだったので、もうこれ以上足掻くのはやめて、鍵の空いた扉を閉めて靴を脱いでから空っぽの部屋に、ただいま、とだけ投げた。 転がっている毛布が音を吸い込んでしまうまで、いくらもかからなかった。 せじょう、くらいしていけよ。     
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