第1章

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「またそのお話ですか。 山下のおばあちゃん」  うん、そうなんだけど。 「そんなこと考えないで。 おばあちゃんはまだまだ大丈夫ですよ。 ほら頑張ってもっと長生きしなくっちゃ」  あらあら、わたしは末期ガン。 大丈夫なわけないでしょ。 それにもう八十を超えて頑張って長生きしたくも無いのよ。 ただ、死ぬ時ってどういうふうになるのかだけが知りたいの。  それほど怖くも無いし、だから逃げたくも無い。 でもどういうふうにその時が来るのかがわかってれば少し安心かな、と思って看護師さんやお医者さんに訊くんだけど、誰も答えてくれないのよ。  思い残すことは無い、ってのは嘘ね。 そりゃいろいろある。  友達のあの子とあの子とだけはまたご飯食べてお酒飲んで話したい。 あぁ、パリとニューヨークにももう一度行ってみたかった。 おほっ、ちょっと見栄を張ったかな。 私の悪い癖。 箱根でも草津でも充分かも。 おっと、子供たちのことを忘れてた。 ああ、もう彼らは大人。 というかもう他人。 ちゃんと育てたわよ。  あいにく今はまだ時々小雪がちらついているけど、もう少ししてから旅立ちたかった。  死期が近いから桜が散るのに感動するんじゃない。 子供の頃から、顔を上げると真上から雪のように降り注ぐ薄桃色の桜の花びらに何度涙を捧げてきたか。 そのうち花びらが落ちて来るのではなくて、私が天に昇っていくかのような気持ちになっていた。 「たぶん、死ぬときはあんな感じなんだ」  家に帰ってそう言ったとき、母は聞こえていないようだった。 なぜか父が、そうかい?と少し微笑みながら答えてくれた。  でも私にとって一年でいちばん好きな季節は春じゃない。  桜が緑の葉になって、いえ、桜だけじゃなく、全ての木々が緑の深みと香りをここぞと誇るように競い出す五月。 なんだかいつも黄色っぽくて埃っぽいこの国にあって、この時期だけ白を通り越して透明の日差し、そして澄んだ空気になる五月。  死んだ主人は一度もわかってくれなかったけど、まだ五月なのに時々夏の空気が混じっていているのよ。 日焼けした肌をさらにこれでもかと焼き付ける西日の中、海岸から民宿へと引き上げる時の香りがするのよ。  家中の窓を開け、昼間から少しだけお酒を飲んで、畳の上に大の字になる。
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