第1章

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 いえ、だからもう良いの。 ただ、少し情けないんだけど、死ぬ前の最後の感覚というか、どういう風になるんだろう、という疑問だけが気になるの。 ごめん、はっきり言う。 そこだけが怖い。 そこさえ誰かが教えてくれたら、もう笑って、は嘘でも、安心して死ねると思うんだけど。  でも誰も答えてくれないの。 当たり前よね。 だって誰も死んだことないんだから。 「山下のおばぁちゃん、どうですか?」  不意にそう訊かれて、驚いて見ると、見慣れない医師が優しげに微笑みながら私を見つめていた。 時計を見ると消灯直前で、こんな時間に医師の回診を受けたのは初めてだ。 「えっと、あら、こんな時間に回診ですか?先生」  わたしのとっさの返事が少し不機嫌そうに聞こえたのかもしれない。 その医師は申し訳なさそうだった。 「あぁ、すいません、ここにきたばっかりで、少しでも患者さんに慣れておいたほうがいい、と医長に言われたもので...」  あぁ、若いって本当に素晴らしい。 いえいえ、この新人医が少しばかり男前だから言うんではないのよ。 見かけはいうまでもなく、小声であっても力溢れる声、全ての仕草の切れの良さ。 何から何まで若さって美しい。  でも女はいつまで経っても男には意地が悪い。 そんな、正直、消灯前にうっとりと見てしまいそうな若い医師にも悪態をついてしまいたくなる。 「先生、死ぬ時ってどんな感じなんでしょう?」  さぁ、若先生、どんな返事をしてくれますか? 「失礼ですが、山下さんはおいくつでしたっけ?」  『失礼ですが』と言う辺り、なかなかじゃないか。 「もう八十超えてます」 「ということは、もう山下さんは...、三万回ほど死んでいらっしゃいますね」 「...はぁ?」 「山下さんは眠りに落ちる時どんな感じですか?」 「え? あぁ、なんか沼に引きずり込まれるようにズルズルっと...って感じでしょうか」  すると新人医はプッと小さく吹き出して、 「面白い表現ですね」  私はその医者の仕草が誰かに似ていると感じたんだけど、もうこのボケた頭じゃ思い出せない。 「いえ失礼、その通りです。 人は寝るときには意識を制御できません。 ですから『眠りに落ちる』と言いますし、英語にも同じ表現があります」  はぁ、こんな時間になんて理屈っぽいお話を。 「つまり、人は寝るたびに意識の上では死んでいるようなもんなんです」  え...?
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