愛しさを忘れたいから。

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「好きだったよ、ずっと」 言い置いて走り去る背中を引き留めるか否か迷った一瞬、その間に姿が見えなくなっていた。 人混みに目を凝らしても、見間違えるはずがない背中は、やっぱり雑踏に混じらない。 「っ……」 手ひどい置き土産だった。 今、思えば。化粧で誤魔化されていた彼女の目元は、にじんでいなかったか。 でも。 でも。 なーんてね、とか言えよ。 冗談だって笑えよ。 好きだったなんて言葉より、あのころのことを恨んでるって言われた方が、まだ上手く飲み込めたかもしれない。 おまえは俺を(なじ)ったってよかった。恨んだってよかった。なのになんで。 なんで。 『私の結婚式、呼ぶからね』 『やめろ呼ぶな、金やんなきゃいけなくなるだろ』 『えー、いいじゃんか、祝ってよ。ブーケあげるからさあ』 『いるかばーか』 ホームの壁に力が抜けた体を預けた。 暗闇に浮かび上がる冷えきった白に、彼女の手を思い出す。 真夏でも冷たいくらいに冷え性だったことも思い出して、俺を沈ませる。 幼い思い出は、どうして苦しいものばかりに変わっていくんだろう。 ささいなやり取りは、どうして今になって一息に蘇るんだろう。 ……あのころ、嫌われたり軽蔑されたりする覚悟をしてでも言えばよかったのだろうか。 好きだと、たった三文字を伝えれば、何か違ったのだろうか。 堂々巡りの切なさが、苦しいくらいに喉を詰まらせる。 幼かった。馬鹿だった。 あの日々はそれでも、眩しくて愛しくて、幸せに輝いていた。
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