1805年 ― 屈辱

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1805年 ― 屈辱

 1789年間、フランス革命は、バスティーユ襲撃で幕を開け、次いでベルサイユにて、国王一家がパリへ連行された。  ヨーロッパ諸国は、初め、革命には、不干渉の構えだった。  だが、ピルニッツ宣言を重く見たフランス革命政府はオーストリアに宣戦布告、フランス革命戦争が勃発した。  フランスはまた、王制廃止、共和制を宣言した。国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが、相次いで、ギロチンにかけられた。  王妃の実家、ハプスブルク家が覇するオーストリアの怒りは、深甚だった。  疫病のように足元を掬う革命思想に危惧を覚えたのは、オーストリアだけではなかった。ロシアを含む諸国は、オーストリアと結び、フランスに対抗する同盟を結んだ。  王の絶対支配の元、宗主国の利益を守る為、ヨーロッパ諸国は手を結んだ。そもそも、ロシアを含むヨーロッパの王家は、どこかで血が繋がっている。  一方、フランスでは、クーデターが起き、ジャコバン派の独裁に終止符が打たれた。新しい総裁政府は、オーストリアら同盟軍と戦う一方、王党派の巻き返しも鎮圧しなければならなかった。  強力な軍の力が必要となった。  総裁政府は、ナポレオン・ボナパルトの台頭を許した。
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