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予想は外れた。諒次は東京を離れ、広島に戻った。当時、完が所属していた市民サークル「劇団のっぽ」に顔を出し、その一員となった。
『ご乗車ありがとうございます、まもなく広島、広島です』
瞼をこじ開けると赤い外壁のマツダスタジアムを過ぎるところだった。冬の球場には誰もいない。身体の向きを変え、遠ざかっていく無人のベンチを眺めた。広島駅が近づいてくる。
改札口を出ると、栄養ドリンクとパンを買い、歩きながら食べた。
駅裏の通りは新しい建物と古い木造家屋が混在していた。駅の表側を覆った開発の波が、ゆっくりとこちらにも浸透している。デザインマンションの隣はコインパーキングで、その向かいは錆びた看板の自転車店だ。あと十年もすればまるで違う風景になっているだろう。もっとも変化は目につきやすい場所だけで、一本だけ道を入るとまだまだ古い町並みは残っている。目的地のチサンマンションもそうした通りにあった。だらだらと続く坂道を上ると築三十年は過ぎている緑色の外壁をした建物が見えてくる。背後に山を背負っていて、斜面には無数の墓石が並んでいた。
一階はすべて店舗だ。スタンド式の看板を出した床屋は店主が暇そうに鏡を見ていた。隣はシャッターが閉まったままの鮨屋で、その隣がツタの絡んだ喫茶店だ。
マンションの入口は両開きのガラスドアで、ちょうど年配の女性が出てくるところだった。霜降りの髪をひとつにまとめ、黒いコートを着ている。耳が押しつぶされたように変形していた。田口豊子だ。声をかけて近づくと、豊子は足を止めた。
「どちらさんだっけ」
「倉石です。ほら、劇団中庭の」
怪訝そうな目つきは変わらない。アマレスでつぶれたというカリフラワーイヤーに手をやり、眉間にしわをよせている。裏方の、と説明するとようやく笑みを浮かべた。
「あんただったの」
「お出かけですか?」
「別に見たくもない映画をね」
豊子はため息をついた。
「追い出されたんだよ、諒次に」
「どうしてですか」
「さあね。あたしにはわかりませんよ。お父さんは将棋に行っちゃったし」
駐車場で妹が待ってるんでねと、そっけなく背を向けた。
マンションに入ってからも、豊子の悔しそうな顔が消えなかった。ずっと彼女は好きで外出しているのだと思っていた。豊子にもスタッフとして手伝ってもらえるよう、諒次に頼んでみてもいい。人手はいくらでも欲しいのだから。
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