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義父の物忘れがひどいの、と彼女は言った。てんかんの発作によるもので、認知症とよく似た症状を引き起こすのだという。
「自覚症状があればね、少しはましなんだけど。ところであなたも俳優さんなの?」
あがり症なんですよと答え、紙袋の高級焼き菓子を渡した。女性がドアを閉じると二時を五分過ぎていた。一軒だけで二十分費やしたことになる。
六〇五号室は夫婦喧嘩の真っ最中だった。夫が浮気したらしく、どう思うかと若い女に詰問された。答えられないまま突っ立っていると、紙袋を奪われ、ドアを閉められた。チケットは渡せなかった。四〇五号室は留守だった。手帳を開き、留守だったことを書き記していると視界の隅に白いものが見えた。
顔をあげる。
雪だった。綿毛のような、小指の先にも満たない薄い雪だ。舞うように落ちて、アスファルトに触れて溶ける。最後に雪が積ったのは、十年前だ。思いだすと割れたガラスに手を突っこんだような痛みが走った。
しばらく手すりにもたれて、外を眺めていた。
マンションの入り口から見覚えのある真っ赤なコートを着た女性が飛び出した。目を凝らす。どう見ても美妃に見えた。あっという間に遠ざかっていく。そのスピードが異常を知らせている。
急いでエレベーターに向かうと電話が鳴った。諒次だった。
「ロボットが脱走した」
「美妃ちゃん?」
「そう。捕まえてくれ」
「諒次さん、わかってますか。公演は明日なんですよ」
「わかってるよ。そんなことわかってるって。だから捕まえてくれって言ってるんだ」
「待って。まだ切らないで。何があったんです」
「知るか」
電話が切れた。美妃に電話しても繋がらない。電源を切っているようだ。
マンションを飛び出た。遠くに赤いコートが見える。長い坂を下った。一向に距離が縮まらない。息が切れてきた。
二時間しか寝てない体調を考慮しても、美妃は足が早かった。じりじりと引き離されている。
短い商店街を抜ける。川が見えてきた。海と繋がっているため、かすかに潮の香りがする。遠くの橋にベストを来た釣り人の姿が見えた。落ち葉を蹴散らして走る。
川面は鈍く光り、時折、魚の跳ねる音がした。
やがてちょっとした広場についた。天気の良い日は愛犬にフリスビーを投げる飼い主や、制服姿の高校生が座っているものだが、今日はほとんど人の姿がなかった。
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