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美妃は広場のベンチに一人で座っていた。じっと川を見つめている。呼吸が整うまで待って、下に降りる階段に向かった。携帯電話の電源を切って隣に座る。川を眺めた。強さを増した雪が、鈍く光る水面に吸い込まれていく。遠くで電車の走る音が聞こえた。
「何も言わないんですか」
美妃が言った。
「元陸上部?」
美妃は答えない。時折風が吹いて、雪が顔を打った。火照った顔が冷えていく。
「違います」しばらくして美妃が言った。「でも走るのは好きでした。小学生のころはマラソン大会で一番とか二番だったし」
「ぼくは足が遅かったから、マラソン大会の前日は雨が降るよう祈ってたな。追いつけないかと思ったよ」
「すみませんでした」
「その」咳払いをして続けた。「演技指導がランニングの原因なのかな?」
美妃がこっちに顔を向けた。髪が雪で濡れていた。寒さのためか、顔が真っ白だ。頬に乱れた髪が一筋張りついている。
「与えられた状況を信じて、適切なアクションをすれば、感情は自然に生まれる」
美妃は諒次の声を真似して、少しだけ笑顔を見せた。
「頭ではわかってても、理論通りにならないことも多いですよね」
「まあ、そうだよね」
「でもそういうことじゃないんです――あの」
言い淀むように顔を伏せた。
「何?」
それでも返事をしない。何度か促すと、やっと顔をあげた。
「あのですね、つかぬことをお聞きするんですが、倉石さんのご両親ってどんなかたでした」
「僕の? どうして」
ちょっと聞いてみたくて、と美妃は言った。
子どものころ、給料日にはホットプレートで焼き肉を食べるのが恒例行事だった。食事の前には「おとうさん、ありがとう。いただきます」と言って食べるのが決まりだったが、ある日父がこう言った。「おとうさんだけじゃなくて、おかあさんにもありがとうと言わなきゃ変だな」と。それからは父と母に感謝を述べて、箸を持つようになった。
話し終えると、美妃は「いい話ですね」と平坦な声でつぶやいた。寒そうに両手をこすっている。少し話し過ぎたのかもしれないと思っていると、美妃が口を開いた。
「諒次さんの、ご両親に対する態度、どう思います」
「どういうこと」
「聞いちゃったんです、あたし。本当に偶然だったんですけど」
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