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「……で、終電の時間を過ぎるまで、その男の人相手にひたすら別れ話をリピートしたと」
「そんな楽しそうな顔で言わないでよね……」
翌日、私は薄情者の友人を捕まえると、いつものカフェでランチを取りながら、昨夜の出来事を話して聞かせた。二日酔いの頭に、友人の無邪気な笑い声がガンガン響く。
そんなに笑っているけれど、そもそも貴女が私を置いて先に帰りさえしなければ、こんなことにはならなかったんだけど? ……私はグレープフルーツジュースのストローを噛みながら、あれやこれやの思いを込めて友人を睨みつけた。
「でも、変わった人ねぇ、その人。ひたすら愚痴を聞いた上に、バーの会計も全額持ってくれたんでしょ?」
「帰りのタクシー代まで出してくれたわよ……」
「それで、本当に何もなかったっていうのがねぇ」
……そう、何もなかった。
男はただ私の愚痴を聞いて、それをひたすらノートに書き留めていただけだった。話に夢中になりすぎて私が終電を逃したと知ると、すぐさまタクシーを呼んでくれた。ひょっとして、やっぱりそっち狙いだったのかと一瞬警戒したが、……へべれけになった私一人をタクシーに放り込むと、運転手にタクシー代を渡してそのまま消えてしまったのだ。
「ナンパでも送り狼でもなく、ただ愚痴を聞いただけって……何者なの、その人」
「……さあ」
友人の疑問はもっともだ。わざわざお金を払ってまで、酔っ払いの繰り言を聞いてくれる奇特な人物。しかも、この手の話にありがちな下心もないなんて、普通ならありえない。
そう、普通なら、だ。
……だって、それが昨夜私に起こった不思議な出来事の『全て』ではなかったのだから。
話を「売ってほしい」という男の言葉を、私は全く本気にしていなかった。ただ、愚痴を零す相手になってくれればそれでいいと、本当にそれだけのつもりだった。
さんざん話して、すっかり酔っ払って……目が覚めた時には、私は既にタクシーの中にいた。ぼんやり眺める車窓の向こうには、見慣れた風景が流れている。自宅のマンションまであともう少しだと思った瞬間、私の顔から血の気が引いた。
そうだ、私はカクテル片手にさんざん愚痴って……それからどうしたんだっけ。バーの会計を済ませた記憶もない。それどころか、給料日前の私の財布の中に、深夜の割増料金のタクシー代を払えるだけの余裕なんてない。
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