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彼は目を丸くしたまま、金魚みたいに口をぱくぱくさせている。本を出すたび、何十万部と売り上げているはずなのに……自分の書いた本を見て、今さら何に動揺しているのかと、私は何だかおかしくなった。
「私が君の本を買ったのが、そんなにおかしい?」
「いや、だって……オネーサン、ミステリーにはあんまり興味ないって」
「何だか読んでみたくなって。自分の読まないジャンルの本が気になることだって、たまにはあるでしょ」
「いや、そうなんだけど……」
自ら小説家だと名乗ったのだから、私が彼の本に興味を持つ可能性なんて、十分予想できただろうに。……私の行動がそんなに意外だったんだろうか。彼がこんなに困った顔をしているのは珍しかった。
彼は口の中でぶつぶつと何か呟いた後、覚悟を決めたように私に尋ねた。
「……もう読んだ?」
「まさか。本屋で君から連絡もらって、そのままここへ直行したから。短編ひとつ読むのが精一杯だった」
「いや、十分読んでるだろ、それ」
何だか諦めたように小さくため息をつくと、彼は私の手から紙袋を取り上げ、そのまますたすたと駅の出口へと歩き出した。
私は慌てて、彼のあとを追いかけた。足早に階段を上がっていく彼は、後ろを必死に着いていく私の様子を気に留めるつもりもないのか、全く振り返ろうとしない。その背中に、私は思わず声をかけた。
「それ、そのまま持って帰らないでよ?」
「出版社からもらったやつが家に全巻揃ってるってのに、んなことするか。……つか、欲しいのなら言ってくれりゃいいのに」
「本屋で買うことに意義があるの。売り上げは大事よ?」
「……お気遣い、どーも」
階段を上がりきって、地上に出る。いつの間にか、街はもうすっかり夜の帳の中だった。看板の電飾と、窓から漏れる照明と、絶えることなく流れる車のヘッドライトが、闇の中に大小色とりどりの光の球を作る。
「……さすがに夜になると冷えるな」
ぽつりと呟いて、彼がようやく振り向いた。街の灯りに照らし出されたその顔は、無邪気に笑っているように見える。
私は、この顔に見覚えがあった。……ぶくぶくと水中で泡を吐き出しては、それと戯れていたアザラシ。その姿を幸せそうに見つめていた時の、あの顔と同じだった。
「オネーサン、ラーメン好き?」
「あ、うん」
「美味い店知ってる。どう?」
私はコクリと頷いた。
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