薄闇の向こう

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根負けした彼は、帽子のつばの下から私をちらりと見ると、再び深くため息をついた。しばらく考えこんだ後、ようやく諦めたように口を開く。 「……編集さんに聞いてみる。だけど、期待はしないでよ? あれ、結構売れたらしいんで」 「うん、分かってる」 「できれば、本になってからの方がありがたいんだけどなぁ、俺。あれ、まだ中途半端だから」 「大丈夫。本もちゃんと買うから、安心して」 「あのなぁ……」 彼がちらりと腕時計を確認した。バーで会う時よりはまだだいぶ早いとはいえ、それでもそこそこ遅い時間だ。彼が少し心配そうに尋ねてきた。 「タクシー呼ばなくてもいい? 結構遅くなったけど」 「これぐらいなら平気。友達と飲んで帰る時よりも、よっぽど早い時間だし」 「駅から家までは、この時間でもまだ人通りある?」 「……そんなに心配なら、家まで送っていきます?」 「……問答無用でタクシーに放り込むぞ」 紙袋を抱えて、私は階段を下り始めた。……そういえば、私はすっかりラーメンのお礼を言い忘れていたと思い出す。振り返った視線の先……彼はまだそこに立っていた。 「……どうかした?」 「あの、ラーメン。すごく美味しかった。……ごちそうさまでした、誘ってくれてありがとう」 「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう。おやすみ、オネーサン」 彼が、ふわりと柔らかく笑った……水族館で見た、イルカの水槽から漏れる陽の光に照らされていたあの時の笑顔に、とてもよく似ていた。 ふと、『君』ではなく、彼の名前を呼んでみたくなった。別に彼をからかいたくなったわけではなく、ただ何となく呼んでみたいと……何故かそう思った。 「おやすみなさい、ハルさん」 「おいちょっと待て」 「お仕事頑張って。またね」 私は、逃げるように階段を下りた。足音も気配もしなかったから、彼が追いかけてくるようなことはなかったらしい。ほっと安心したような、ちょっと寂しいような……何とも複雑な気持ちで改札へ向かう。 「……え?」 ふと、私の後ろで何かが聞こえた。 振り返ってみても、私の後ろには誰もいなかった。階段の上がり口まで戻って、地上を見上げてみる……そこにも誰もいなかった。 ……私の空耳だったんだろうか。いや、でも確かに聞こえた……私の後ろから、あの聞き覚えのある声で。 『リコさん』と、確かに呼んでいた。
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