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タクシーのメーターの数字は、あと少しで五桁の大台に乗ろうとしていた。マンションの前で停められた車中で、財布とメーターを交互に見てはおろおろする私に、運転手はニカッと笑いながら振り向いた。
「もういただいてますんで、大丈夫ですよ」
目眩がしそうな私とは対照的に、運転手はすこぶる上機嫌だった。今時、お釣りはいらないなんて気前のいい彼氏さんだねぇ……と言われても、訂正する気力もなかった。
ふらふらと自宅に戻ってきた私に、さらに追い打ちがかかった……鍵を探して手を突っ込んだバッグの中で、私の手にカサリとした感触が伝わる。恐る恐る取り出してみると、それは見覚えのない封筒だった。
そっと中を覗く……諭吉さん。しかもおひとり様じゃない。慌てて中身を取り出すと、重なる諭吉さんの隙間から何かが滑り落ちた。
「……中村ショータ、って」
シンプルながらもセンスのいい名刺に書かれていた名前は、雑誌やネットでよく見かけたことのあるものだった。数年前、初投稿でいきなり有名なミステリーの大賞を受賞して以来、ベストセラーを連発している若手小説家。ここ最近の作品は、ドラマや映画の原作にもなっていたはずだ。
……もしかして、あの男が?
いやいや、そんな有名人があんなことをするはずがない。きっとニセモノに違いないと、封筒の中へ名刺を戻そうとした私の目に、名刺の裏側に書かれた文字が飛び込んできた。
『オネーサンの話、確かに買い取らせていただきました。よろしければ、他の話もぜひお聞かせいただきたく存じます』
少し癖のある字で綴られた文章と、そこに書き添えられた電話番号とメッセージアプリのIDに、私の酔いは完全に覚めていた。ぼんやりと遠く霞んでいた記憶が、ふつりふつりと形を取り戻していく。そう、彼は確かに言っていた……「話を売ってくれないか」と。
つまり、この諭吉さんも……支払った覚えのないバーの会計も、運転手が上機嫌になるほどお釣りが出たタクシー代も、全て彼が私の話を買い取った対価だったと。あまりにも現実離れした現実に、鍵を取り出すのも忘れたまま、私は手の中の封筒を呆然と見つめていた。
突然、バッグの中のスマホが震えた……メッセージアプリの受信を報せる通知音に、慌ててスマホを取り出す。てっきり友人からだと思っていた私の顔は、一瞬にして固まった。
『今夜八時、お待ちしてます』
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