開幕

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 暮れなずむ空が落とす影のせいか、彼の笑顔が寂しそうに見えた。うん、とだけ答えて道を違う。また明日、と言うと彼はまたね、と返した。  家に着く頃には、もう日は落ちきっていた。誰もいない家のドアを静かに開けて、誰に言うでもなくただいま、と呟く。声はどこからも返らない。  明かりをつけて居間に入ると、大理石で縁取られた大きな姿見の中の自分と目が合った。黒い髪、青い瞳。神流とよく似た顔のパーツの一つ一つ。なんだか気まずいような気持ちになって、そそくさと目を逸らした。  ――ああ、ここで神流は死んだのだ。  毎日こうやって、事実を再確認する。いつか気が狂ってしまいそうだった。鏡に向かってお前は誰だと問いかけ続けると気が狂うと言うし、白い部屋の中に閉じ込められると発狂するとも言う。要するに単純で単調な作業の繰り返しは人を狂わせるのだろう。もうとっくに狂っているかもしれない僕は、神流が死んだと毎日確認しなければ、あの幻覚を認めてしまいそうになる。仕方のない行為なのだ、と自分に言い聞かせつつ、僕は狂っていない、と反芻する。  あの日の赤色は、もうここにはない。  ただただ無彩色の無機物達だけがそこにいた。
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