ある土曜日

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さすがの私も恐怖で足がすくんでしまった。 信号が変わった途端、対岸の重そうな身体が面白いほど軽やかに、一直線に私目掛けて走り出したのだ。 ただ急いでいるわけではないということは、男の視線が間違いなく私を捉えていることからも明白だ。 こんな時に限って、私の他に横断歩道を渡る人も、信号待ちをする車もない。 後ろを向けばさっきまでいた携帯ショップがあるが、全速力で向かってくる男から逃げ切れるとは到底思えない。 私がそんなことを考えている数秒の間に、男は信号を鮮やかに渡りきると、私が肩に掛けていたバッグをひったくり、私を強く突き飛ばした。 男でいっぱいになった視界が、強烈な衝撃と共にひっくり返る。 私は軽く中を舞い、なす術もなく派手に尻餅を付いた。 不思議と痛みはない。 気が動転し過ぎて、そこまで神経を回せないのかもしれない。 ほんの数秒の静寂。 四方に散った意識が、徐々に戻ってくる。 行き場を失い右へ左へと彷徨っていた視界が、私のカバンを脇に抱えた巨体をようやく捉えた。 男はそれを確かに見届けてから、身の毛もよだつような気持ちの悪い笑顔を浮かべて再度走り始めた。 私は恐怖による硬直を一瞬で解いて立ち上がり、男の背中を追って走り出した。 苦境時の私の精神は、自分でも嫌になる程図太くてしつこい。 やられっぱなしでハイハイそうですかなんて、私のプライドが許さないのだ。 とはいえ相手は成人男性、特別運動神経がいいわけでもない私は追いつくどころかどんどん離されてしまう。 さすがに諦めかけたその時、男が通り過ぎた路地から小さな子供がひょこっと顔を出した。 男の子だ、と思う。 青を基調にしたシンプルな洋服にハットを合わせた、遠目から見てもずいぶんとオシャレな子供だ。 何か声を掛けたのだろうか、男は振り返り子供を見つけると、Uターンしてその路地に走り込んだ。 次の瞬間、ガシャンとう自転車が倒れたような音と男の痛がるうめき声のような音が、私の耳まで確かに届いた。
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