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その詩の中で『みちこ』は美しかった。
倫子も美しいと思ってもらえたのだろうか。
私は、この村で初めて自分と似た人を見つけたと思った。相手はいずれ最高学府に行くだろうぼんで、私は高等女学校に行くお金もない家の娘だ。
だが、魂が似ている。
それから私は繰り返し詩を読んだ。読めば読むほど葵さんに近づけるような気がした。詩には、田畑のある情景が広がっている。見飽きた田舎の風景もこの中原中也にかかると、とても美しく見えるから不思議だ。葵さんもこんなふうに故郷を思ってくれているのだろうか。
三年の月日が流れ、私が十五になったとき、葵さんが突然うちにやって来た。軒の低い木造平屋の前に、詰襟にコート姿の、あの美しい男が立っている。
私は息を呑んだ。
どっどっという心臓の跳ねる音を感じながら、努めて冷静に「お久しぶりどす」と声をかけた。誰が訪ねてきたのかと玄関から出てきた母がびっくりしつつも顔に喜色を浮かべる。葵さんに中へ入るよう勧めたが、彼は固辞した。
私と葵さんは、殺風景な庭での立ち話となる。
「『山羊の歌』どうやった?」
「へえ。『みちこ』がいはったんで、えらいびっくりしましたえ」
葵さんが可笑しげに笑った。相変わらず品位のある笑い方で、『在りし日の歌』という中原中也の本をくれた。
「僕はこの春から東京の第一高等学校に進むんや」
第一高等学校というと、ほとんどが東京帝国大学に進むはずだ。さすがに驚いた。最高学府で詩でも学ぶ気なのだろうか。
「ほんまどすか。おめでとうございますえ。やっぱし文科なんどすか?」
彼の笑みが皮肉をまとう。
「ほんまは文学をやりたかってんけど……」
口惜しそうに言って俯いたあと、彼が急に顔を上げた。無表情になっていた。
「僕は東京帝大に進学して、お国のために工学を勉強するつもりなんです」
棒読みだった。このとき私は初めて彼を理解できたような気がした。
「工学を学びながらも詩集を読まはることはできますさかいな」
葵さんがまじまじと私を見つめてくる。
「もうこの村にはしばらく帰って来られへん」
だから、お嫁にしてくれるのかと私は胸を高鳴らせて次の言葉を待った。
「お元気で」
彼があっさりと踵を返す。
いくら村一番の美人でも、所詮『村』一番だ。人生は思うようにはいかない。
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