5月の水辺

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着物だと、こうして周囲に気を使わせてしまうことがある。そんなに制限される行動などないのだけれど。 「そう、なら」 と、連れられたのは寿司バーだった。 軽く日本酒を嗜んでいる彼のとなりで、モダンな手まり寿司とおばんざいのプレートをいただく。田舎じゃこんなにお洒落にお寿司を盛り付けたりしない。ネタに薬味がきれいに盛られて、思わず写真を撮りたくなるほどきれいだ。 けれど、上手く喉を通らない。 緊張してしまって、手が震える。 いっそ私もアルコールを入れた方がよかったかもしれない。 「いつこっちに?」 突然の質問に、口に含んでいたお寿司をやっとこさ飲み込む。 「さっきです。新幹線から乗り継いで、着いたばっかりです」 目が瞬く。 「本当に慣れているんだな。自分で着付けも?」 「はい。元々、小さい頃から着ていたので」 「知らなかった」 「演奏ではさすがにドレスを着ますからね」 「ピアノはともかく、声楽なら構わないだろう」 「気持ちの入れ方が変わるんです。ヒールじゃないと」 「ふーん」 ふと、彼と練習室で一緒に演奏したことを思い出した。 初めて会ったのは、私が音大に通っていたとき。私の先生に、OBである彼が会いに来て、遭遇した。彼はまだ無名のピアニストだった。 それっきりだったのに、再会したのは私が高校の非常勤講師として音楽を教えていた頃。 社会人枠の声楽コンクールに出たときに、たまたま再会したのだった。審査員として彼は目の前に座っていた。 『教師にしておくのはもったいないね』 帰り際、そう声をかけられた。 それが2年前のこと。 それから何回か、定期的に行われる彼の小さな演奏会に、ゲストとして出演させてもらった。 そのために、何度も芸術センターの個室の練習室を借りて練習した。ときには彼の家にもお邪魔した。
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