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開化のしずく
第一章 上洛
一
あさがおに水を撒くだけで汗が滲んでくる。空を見上げれば雲一つない。手の甲でそっと額を拭った。庭のすみにたたずむ金木犀では朝から蝉が騒いでいる。その金木犀が橙色の小さな花を咲かせ、強い芳香を放つにはあとひと月以上待たねばならない。
「詩乃、兄上がおでかけですよ」
母の声が聞えた。水桶を置き襷を外しながら玄関へ向かうと兄の彦太郎が出て来たところであった。
「母上にも言っておいたが、遅れぬよう父上を送り出してくれよ」
「はい」
答えてくすっと笑ってしまった。
一見がさつに見えるが何事にも慎重な兄らしい。昨夜も何度となく同じ事を言い、今朝も出がけに念を押している。兄は二年ほど奉行所見習いとして父に仕込まれ、正式に同心として採用されたのを機に家督を継いだ。父は楽隠居となって一年、のんびりしすぎるほどの生活を送っていたが、先日、帰って来た兄から「お奉行から重要な話があるので、明後日の八ッ半に父親ともどもまかりこすように言われました」との話があった。内容は取り次いだ上役も分からないらしい。隠居した父親まで呼び出された事に家族が心配顔になると、兄は「悪いことではないらしい。省吾も一緒だから心配ない」と慌てて付け加えた。
世情は暗く、尊王だ攘夷だと国中が乱れ血生臭い事件が後を絶たない。今年一月には老中安藤正信が襲われるという事件が起きている。江戸の治安も悪化しており、殺人、押し込み強盗が多発している。奉行所は南北問わず猫の手も借りたいほどの忙しさである。家族は兄の身を案じ、疲れて帰宅する姿を見るとほっとするという日々が続いている。
木戸門を開けると何時ものように省吾さまが立っていた。
「おはようございます」
声を掛けると空を仰いでいた顔がこちらに向き、白い歯が覗いた。
「おはようございます。今日も暑くなりそうです」
黒紋付羽織に着流し、髪は小銀杏に結い、すっくと立っている姿は、そこだけ涼やかな風が吹いているのかと思わずにはいられない。そう感じるのは、来年にはこの人に嫁ぐのだという贔屓目だけではない。
兄は「省吾と歩いていると必ず振り向く娘がいる。まるで俺は省吾の引き立て役だ。おい詩乃、今から覚悟しとけよ」などとからかい、こちらの様子を窺って下品な笑い声を上げるしまつである。
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