第1章

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「ったくう、来年には夫婦になるってえのに、毎朝他人行儀な挨拶しかできねえのかねえ。子供の時分にはもうちっとましだったはずだ」  兄は伝法な口調で言うと、 「さて、今日も一日気張るかあ、なあ省吾」と軽く肩を叩く。  連れだって歩く二人を見送り、庭へ戻って柄杓を手に取ったとき、ふと兄の言葉を思い返した。何時からだろうか、省吾さまを男として意識しだしたのは……。  わが向井家と省吾さまの牧村家は庭の垣根を挟んで隣同士。その垣根もおとなの胸ほどの高さ、お互いの家内は覗かなくても丸見えで、母親同士よく垣根越しに世間話をしている。兄と省吾さまは一つちがい。小さい時分から何をするにも一緒。私が二人の後を追いかけると、決まって兄は「ついてくるな!」と怒鳴る。私が涙を浮かべると省吾さまはにこっと微笑み「いいよ、一緒に遊ぼう」と手を引いてくれた。見ている兄は膨れっ面になるが何も言わずにいた。兄が十才の時、二人揃って御徒町の剣術道場練武館へ入門した。小さな体に竹刀と防具を担ぎ遠ざかるふたりの背を見詰め、なぜだか仲間はずれにされたようなさびしい気持ちになったのを憶えている。それから四年たち、私が十才になったとき「わたしも剣術をならいたい」といったら両親は反対したが兄はにんまりと微笑み「いいんじゃないか、同心の娘なんだし」と賛成してくれた。それからは楽しい月日だった。兄と省吾さまと三人で練武館へ通うことができたのだから。兄が十六、省吾さまが十五才のとき、二人の元服を一緒に祝うことになった。我が家の居間で、借りてきた金屏風の前に緊張のおももちで座る兄と省吾さまを見たとき、なぜだか幼き日々が蘇った。兄にじゃまだの、帰れだのといわれると必ず省吾さまがとりなしてくれた。遠くまで二人の後をついて行き、帰りは疲れて歩けないと泣くと、省吾さまはやさしく負ぶってくれた。今、前髪を剃って月代姿になった凛々しい姿を目にすると、ああーこれでふたりはおとな。自分だけがとり残されたような感覚に見舞われて、気付かれぬようそっと涙を拭った。  その日は父も牧村のおじさまもだいぶ酔った。母と牧村のおばさまと三人で洗い物をしていると、そうとう酔っている父の声がした。 「多江、詩乃、それからとよさんもこっちへ来てくれないか。大事な話がある」
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