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 加古川に高塚兄弟ありと言われていた。  特に兄、修司は、某有名横綱の落とし胤だろうと噂されるほどの容貌と足腰、張り手の技があった。  どこのどういう大会でも、優勝は修司。  で、俺、弟、高塚雄飛は常に次点。  ついた仇名が『雄飛せぬ』とか『せず』とか。  神戸に在する高津川部屋から声がかかったのも修司のおまけだった。  しょうがないとしか言えんじゃないか。  俺だって、相撲が出来なきゃただのデブ。  卒業したらお世話んなる。  薄々その気ではいたけど、厭で厭で。  高校時代は思い切ってバスケ部に入ってみたのだった。  ガタイ的にはセンターだ。  上背はたりないが、当たりにはめっぽう強い。  どんなセリアイにもひるまん俺はバスケ部の、そしていつしか学校全体の自慢となっていた。  名フォワード秋津順也が攻め。  そして俺が守りの要。  俺たち二人がいれば無敵…  その年、うちの学校はインターハイを制し、秋津は大学バスケの関西の雄、関西産業大学の、推薦枠をかち取った。  関産大は俺とペアで欲しいと望んだし、俺も半分その気だった。  高津川部屋における兄の活躍は、頗るのWつきで、俺なんかが行こうが行くまいが、絶対関係なかったからだ。  幕下優勝三回。  敢闘賞、技能賞。  幕内に入ってからは金星に次ぐ金星。  懸賞金は毎日七本以上。  マスク甘いからファンレターもわんさか。  折からスー女~スモー女子~もガンガン増えている時期だったし、山積みのファンレターは兄、修司~いや雄修~の、栄達栄華以外の何をも表わしてはいなかった。  関産大から実業団かプロリーグ。  秋津と一緒なら、かなりな活躍が出来る自信が…俺なりにあったのだけど…  願書をとり寄せてもらってる際中にそれは起きた。  場所中の不運な事故。  大関、盛光(さかりひかり)との取組のさなか、土俵下へ転落した雄修、兄は、全治六ヶ月という深手を負ってしまったのだった。
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