五、舞踏会 - au bal -

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 翌朝、イオネは自分の身に起きたことをようやく理解した。  いつものように布団の中でしばらくぼんやりした後で、髪を整えようと鏡台に向かった時である。イオネは右の鎖骨と首の間に痣の様な赤い痕を見つけた。 (何かぶつけたかな…)  しかし触れても痛くない。不思議に思っていると、昨夜そこにアルヴィーゼの顔が触れたのを思い出した。イオネの男性経験と言えば十歳の時に手を繋いだくらいのものだが、首に付いたそれが何かは容易に想像できる。  口を付けられ、吸われたのだ。  理解した瞬間、羞恥と怒りで顔が沸騰した様に熱くなった。 「アリアーヌ様?」  イオネの様子がおかしいことに気付いて、ベッドの乱れを直していたソニアが声を掛けてきた。しかしイオネはそれに構うことなく、身支度もせず足早に部屋を出た。  食堂でドミニクに給仕され朝食を摂っているアルヴィーゼの姿を認めると、一直線に向かって行った。 「やってくれたわね」  間髪入れずに、手元にあったゴブレットの水を叩きつける様にしてアルヴィーゼの顔に吹っかけた。  ドミニクとイオネを追い掛けてきたソニアが、動くことを忘れてしまったかの様に目を大きく見開いて口をあんぐり開けている。  一方アルヴィーゼは怒るわけでもなく、感情の読み取れない顔で、顔を真っ赤にしたイオネを見上げていた。 「今頃気付いたのか」  水が滴る前髪を除けて、アルヴィーゼが面白そうに笑った。 「こんな辱めを受けたのは初めてだわ!」  悪びれる様子もないアルヴィーゼに、イオネの怒りは募る一方である。 「初めてか」  と、アルヴィーゼはそのことに関心があるようだった。 「二度とわたしに近づかないで」  イオネは低く言うと、やってきた時と同じように猛然と食堂を出て行った。ソニアはそれに気づくと、再び時間が動き出したように、慌ただしく厨房へと向かった。 「イノシシみたいな女だな」  珍しく声を上げて笑うアルヴィーゼに、ドミニクがたしなめるような視線を送った。その手には既にタオルが用意されている。 「一体アリアーヌ様に何をされたんです」 「別に。貴族の振る舞いを教えてやっただけだ」  アルヴィーゼはドミニクからタオルを受け取りながら、しれっと言い放った。  ドミニクはそんな主に対して溜め息を隠そうともしない。有能で貴族としての振る舞いは申し分のないこの若い主にも、存外困った悪癖があったものだ。   「アリアーヌ様…」  ソニアは遠慮がちに声を掛け、朝食の乗ったワゴンを持ってイオネの寝室へやって来た。アルヴィーゼのいる食堂では朝食を食べないだろうと思い、寝室で食事ができるように厨房から持ってきたのだ。  つい先程まで身体中が怒りに燃えていたイオネは、今は真剣な顔つきで大学に着て行くドレスを選んでいる。首についた痕を隠せるデザインのものを探しているのは聞くまでもない。 「ドレスはわたくしがすぐにご用意致しますから、お先にご朝食をお召し上がりください」  イオネは少し躊躇した後で、バツが悪そうに小さく礼を言った。  自分より年下のソニアに、アルヴィーゼから受けた辱めを知られた上、取り乱した所を見られてしまったのだ。決まりが悪いのは当然だった。  しばらくして、ソニアが首回りの狭いドレスを持ってきた。加えて化粧で首の痕を丁寧に隠してくれた。  よく気が回る出来の良い使用人が、何故あんな捻くれた主人に仕えているのか不思議で仕方がない。 (そろそろ家捜しを始めようか…)  かつて住んでいた屋敷はもう跡形もなく、その場所は美しい庭園に変わりつつある。嫌がらせのつもりで移築を依頼した浴室も、そろそろ一階の隅の方で使えるようになるとドミニクが教えてくれた。  とにかくそれまでは、あの狼藉者と出来るだけ顔を合わせないようにすれば良いのだ。    それからというもの、イオネはそれまでに増してアルヴィーゼにつんけんした態度を取り続けた。しばらく食事は寝室でできるようにソニアに頼み、顔も合わせないようにしていた。  当のアルヴィーゼはと言えば、そんなイオネの態度を特に気にする様子はなく、屋敷でたまに顔を合わせる度、何処か愉快そうに話しかけてくるのだった。    そのようにして数日が過ぎ、舞踏会の日がやって来た。  この日も大学の仕事を終えて屋敷へ帰ってくると、門前で鼻息も荒く待ち構えていたソニアに、早速浴室へ引っ張り込まれた。二人の若い使用人に全身を洗われ、髪を乾かされた後は浴室の続き部屋へ連れていかれた。  衣装室にもなる続き部屋にはいつの間にか大きな姿見が置かれ、ソニアと古参のマレーナを筆頭に、五人の使用人が頬を紅潮させて待ち受けていた。 「こ、こんなに?」  たかが舞踏会の支度に、こんなに多くの人手が必要だとは思えない。何しろこれまでは一人で用意していたのだ。 「前にも申し上げた通り、この屋敷には女性がいらっしゃいませんので、アリアーヌ様のお世話を皆楽しみにしているんですよ」 「ああ…」  皆一様に頬を染めて張り切っていることに合点がいった。これでも希望者を減らしたのだとか何とか言いながら、側でソニアがくるくると立ち働いている。あっという間にソニアの仕立てたドレスが着付けられ、別の侍女によって化粧を施され、髪も結われた。  姿見の前に立たされ、まじまじと自分の姿を眺める。  着ているのは、ソニアが描いたデザイン通りのドレスだった。オリーブ色のサテン生地には、光の加減によって浮かび上がる細やかな地紋が施されている。想像していたよりもずっと美しい出来栄えだ。  髪は柔らかな巻き毛を生かすように緩く後頭部で纏められ、ドレスの印象と同じように上品で爽やかに仕上げられた。  侍女たちは自分たちの仕事にとても満足しているらしく、感嘆の声を上げた。 「神話に出てくる女神様みたいですわ」  マレーナがニコニコしながら言った。  イオネはむずむずするような気持ちに耐えきれず、馴染みの馬車がそろそろ来るからという理由をつけて部屋を出て行こうとした。 「アリアーヌ様、お忘れ物です」  ソニアに声を掛けられて振り返ると、金の首飾りを着けられた。肌に装飾品を着けるのは好きではないが、チェーンは細く軽いので、これならあまり気にならない。 「よくお似合いですよ」  トップに真珠がいくつか装飾されている。シンプルだが、なかなかの値打ち物なのは見て取れた。しかし、自分の物ではない。 「これどうしたの?」 「こちらもアリアーヌ様に頂いたご予算からご用意させて頂きました」  果たして渡した予算で賄える代物だろうかと少し不思議に思ったが、それ以上訊くこともなかった。 「本当に付き添いの者をお連れにならなくて宜しいのですか?」  と、外まで見送りに来たソニアに何度も訊かれた。帰りは日が暮れているからと、イオネの身を案じているのだ。 「いつも同じ馴染みの御者に頼んでいるから大丈夫よ」 「左様でございますか…」  ソニアはまだ心配そうにしていた。  ドレスにしても馬車にしても、ソニアが心から仕えてくれているのをイオネは感じた。 「ソニア、これからイオネと呼んでくれる?」  イオネは親しい者が使う呼び名を呼ばせることで、親愛の情を伝えようとした。  それを理解したらしく、顔を上げたソニアは、空色の瞳を嬉しそうに輝かせている。 「いろいろとありがとう。ドレスも首飾りも、とても気に入ったわ。貴女に任せて良かった」  面と向かって改めて言った直後に何となく気恥ずかしくなり、門前で待っている馴染みの馬車にそそくさと乗り込んだ。  イオネがいってきますと声を掛けると、ソニアはイオネが知る限りいちばん嬉しそうな顔で、馬車を送り出していた。
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