一、ユルクスの夏 - Julkus -

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 こうしてユルクスでの生活が始まってから、八年が経つ。  その間に三人の妹はそれぞれ貴族、学者、商人に嫁ぎ、別々の場所で幸せに暮らしている。母デルフィーヌは末娘のリディアが嫁いだ後、貴族に嫁いだ次女クロリスの暮らす中部のパタロア地方へ移り、ユルクスに残っているのはイオネだけとなった。  勿論イオネが十代の頃にも青年貴族との縁談が持ち上がった。しかし、本家の親族が取り持った見合いの席で、相手を辛辣な言葉でこっぴどく振ったのである。この事があってから、イオネに縁談を持ちかける者は少なくなった。  ところが、クレテ家で唯一独身であるイオネの利用価値は高い。懲りずに一部の親類が縁談を持ちかけて来るのだが、これらをイオネは黙殺し続けている。  正直な所彼女は、十八の時に手に入れた教師という職業をとても気に入っていて、結婚や色恋などに煩わされたくないと思っている。多くの権威や知識人が集まる名門大学は、彼女にとっては正に宝の山なのである。  生徒たちの頭の中が、自分の分け与えた知識で満ちて行く悦びもさることながら、好きな言語学の研究を仕事の合間に続けられることも大きな利点になっている。  外国語に堪能で数学にも明るく、幼い頃から才媛と呼ばれてきた彼女だが、どういうわけか乗馬と料理だけは自分でも情けなくなるほど才がない。  それに自宅にいる間の研究の時間も削りたくないので、週三日は近所に住むバシル少年に料理番を頼み、その分の食費と給金を与えている。そのバシルに払う給金を差し引いても、まだ貯蓄には余裕があるので、三か月にも及ぶ夏期の避暑旅行は、彼女にとっては最高に有意義な出費なのだ。  イオネにとって避暑旅行が有意義な出費である理由は、他にもある。  先に嫁いだ三人の妹たちや母を訪ねたり、北部ロヴィタ地方に暮らす弟のキリルと小旅行へ出掛けたりして童心に返ることができるという事。  今ひとつは、中部バイロヌス地方の前領主で名士である「ヴェッキオお爺様」との極めて濃密な意見交換ができるという事だ。  この年の休暇は、最初に上の妹クロリス夫妻と母が住む中部のパタロアへ行き、遅れて合流した末妹リディアと、その三日後にやって来た二番目の妹ニッサを交えて一か月過ごした後、ロヴィタ地方へ行って弟を訪ね、最後にバイロヌスのヴェッキオお爺様の元で更に一か月半滞在した。    この秋八十五歳になる「ヴェッキオお爺様」は、本名をヴィクトル・フラヴァリという。  イオネにとっては曽祖父に当たるイシドロス・クレテの盟友であった。彼らは若い頃に共にクーデタを画策し、ルメオ共和国建国の立役者となった英雄たちである。  そのヴィクトル・フラヴァリが、盟友の曾孫で才気溢れるイオネを実の孫の様に可愛がり、毎年自分の屋敷に招いている。イオネもまたこの老紳士に絶対的な信頼を寄せ、敬愛を込めて「ヴェッキオお爺様」と呼ぶのである。  フラヴァリは夏の休暇の間、自邸でサロンを開き、各地の有識者を集めて毎日のように討論会を開催している。  議題はと言うと、最近の貿易業界の流行商品のことや、王政と共和制に関してなど様々で、時には薬草学の権威でもあるフラヴァリ自らが講釈を行うこともある。  そうでない時は、サロンでイオネがピアノを弾き、フラヴァリがヴァイオリンを弾くなどして互いの趣味を楽しんでいる。もっともこういう時は、音楽にうるさいフラヴァリにしばしばイオネが叱られている。曰く、イオネが弾くと、どんな曲も少し不機嫌な調子になると言うのである。イオネとしては楽しく演奏しているつもりなのだが、フラヴァリにとっては情感が足りていないらしい。  ともあれ、ユルクスとは違った刺激的で穏やかな時間は、学問好きなイオネにとっては最高の至福なのである。    そのように充実した夏期休暇を過ごした後、まだ少し残暑の漂うユルクスにイオネが戻ってきたのは、八月末日の事である。  フラヴァリは若い女の一人旅を案じ、いつも自分の屋敷の馬車でユルクスまで送り出してくれる。普段のイオネは、他人の心遣いを素直に受け入れない程の個人主義者だが、子供の頃から奇妙なほどに惜しみ無く愛情を注いでくれるこの老人には、家族よりも素直に甘える事ができる。  ところが、今回はフラヴァリの馬車には乗らなかった。バイロヌス港から新型の貿易船が出港するという情報を聞いて、ユルクスの隣にあるアラス地方までの切符を手に入れたのである。普通は貿易商人やその関係者でないと乗れない船だが、珍しくイオネからフラヴァリに仲立ちを頼むと、快く引き受けてくれた。  新型の船は速かった。船員も積荷も従来のものよりも多く乗せることができるが、船体の形は風や波の抵抗を受けにくいように改良されている。  爽やかな海風を頬に受け、二時間ほど航海を楽しんだ後は、アラス港から陸路を取った。どうやらアラス港からの馬車も、既にフラヴァリが手配していたらしく、御者は全て心得ていたようにイオネをユルクスの屋敷へ送り届けた。  バイロヌスからの道程は長くはないが、この日は海路と陸路を取った為にいつもの倍は時間が掛かった。早朝にフラヴァリの屋敷を後にし、ユルクスの自宅に帰って来たのは夕暮れ時である。  馬車が止まると、イオネは三か月の休暇へ出掛けていたとは思えないほど小さなトランクひとつを抱えて扉を開けた。  数時間ぶりに地面へ降り立つと、バイロヌスよりも湿り気のある空気が肌を覆った。昼前のバイロヌスでは少し肌寒いくらいだと思ったが、ユルクスの気候には、七分袖のゆったりした薄手のドレスはやはり丁度良い。  白いドレスと腰まで伸びた胡桃色のゆるい巻き毛に西陽を受け、御者に駄賃を渡すと、屋敷の方へ振り返った。  その瞬間――  左手に持っていたトランクがゴトン、と鈍い音を立てて地面に落ち、イオネは時間が止まったように呆然と立ち尽くした。  見慣れた小さな屋敷の真後ろからぐるりと囲い込むように、大貴族のものとも思えるような大きな屋敷が建っているのである。あたかも自分の家が豪邸の庭に取り込まれてしまったようだった。  よく見ると屋敷の前に、腰より低い高さの柵が立てられ、‘EN COURS DE CONSTRUCTION(普請中)’という看板が貼られている。  三か月前にはこんなものは無かったはずなのに、一体どうした事か。  瞬きも忘れて菫色の瞳を開いたままでいると、視界の隅に、鍛え上げられた厳つい身体を作業服で包み、頭に帽子を被った建設作業員らしき男と、貴族風の上等な衣服を纏った男が話しているのが見えた。運動の苦手なイオネはやっとのことで柵を越え、男達に向かって行った。  近寄ってみると、中年の作業員の男が若い貴族風の男に、別棟の柱がどうだとかいう話をしている。 「あの」  混乱した思考を持て余し、どうやって話を切り出そうかと一瞬戸惑うと、作業員の男が怪訝そうな顔をして口を開いた。 「お嬢ちゃん、普請中って看板が立っていただろう。危険だからここには勝手に入ってきちゃいけないよ」  もうすぐ二十二歳にもなるのに、お嬢ちゃんと呼ばれた事がどうにも情けなくて少し腹が立つが、そんな事はこの際どうでもいい。 「勝手に入るも何も、ここはわたしの家です。あなた達こそ何をしているの?」  イオネができる限り威厳のある言い方で問い詰めると、貴族風の青年が、ああ、と何かに気付いたように、上品な細い目元に柔和な笑みを浮かべて口を開いた。 「貴女様は、アリアーヌ・クレテ様でいらっしゃいますか?」  イオネは目を丸くした。なるほど彼女の名前はイオネ・アリアーヌ・クレテである。公的には専らアリアーヌという名前を使い、イオネと呼ぶのは家族か、ごく親しい友人に限られている。しかし、アリアーヌとはエマンシュナ出身の母が付けたエマンシュナ風の名前で、ルメオではその方言でアリアネと呼ばれる事が殆どだ。  その彼女を最初からアリアーヌと呼ぶのは、正式な発音を知っている親族か、そうでなければエマンシュナ人ということになる。イオネにはユルクス大学の関係者ぐらいしかエマンシュナ人の知り合いはいない。しかし見たところ、二人とも大学の関係者ではなさそうだ。 (どうしてわたしの名前を知っているんだろう)  違和感を覚え、無表情のまま少し身を引いて男に答えた。 「…そうです」  そんなイオネの様子を特に気にする素振りもなく、柔らかな笑顔のまま男が続けた。 「お帰りをお待ち申し上げておりました。三か月ほど前に書面でもお知らせ致しましたが、こちらのお屋敷から立ち退きをお願い致します」  一瞬何を言われているのか解らなかった。あまりに衝撃的な内容だ。それに、書面のことなどイオネには心当たりがない。 「書面など受け取っておりません。何かの間違いではありませんか?」  と言い終わらないうちに、イオネはアッ!と思った。  確か休暇に出かける前に、珍しく何かの封書が届いていたような気がする。荷造りにかまけて封を開ける事すらせず、読み終えた本と一緒に食堂のテーブルに置いたままになっているはずだ。 「失礼致します」 と声を掛け、鞄を掴んで慌てて屋敷の中に入ると、木と古い本の香りが混じったような、懐かしい我が家の匂いがした。  玄関に鞄を放り出し、半ば前のめりになって食堂に入ると、三か月前と全く同じ様に焦茶色の木製のテーブルには分厚い本が山積みになっている。その隅に、上等な象牙色の封筒が置いてあるのを見つけた。  宛名には、どこと無く情を感じさせない、流れる様な筆跡で、‘Mlle I.Ariane Krete(I・アリアーヌ・クレテ様)’と、間違いなく自分の名前が書かれていた。  紋章のついたワインレッドの蝋で封をされている。鷲と有翼の獅子が向かい合い、中央上部には月と七芒星、その下に「C」の文字が描かれた紋章だった。    ――コルネール公爵家。  とイオネが思ったのは、エマンシュナ王家の象徴である月と七芒星を使用した紋章を使える貴族は、王家の他にその姻戚に限られており、Cで始まるコルネール家が、その最高位だからである。ルメオとの国境地帯であるルドヴァン地方を治めるエマンシュナの大貴族だ。  ペーパーナイフを取り出すことも忘れて破るように封を開け、一枚だけ入っていた便箋の内容を確認すると、みるみるうちにイオネの顔色が変わった。 「やはり今ご覧になられたようですね」  屋敷から再び現れたイオネを見ると、若い男が困った様子で口を開いた。イオネの手には、彼女が無意識に握りしめてくしゃくしゃになった便箋が握られている。  イオネが男に視線を向けると、作業員らしき男は本来の仕事に戻ったのか、もう側には見当たらなかった。よく見ると、外観が完成したらしい大屋敷の中で、無数の人夫が日没の終業に向けて忙しなく立ち働いている。 「貴方は、コルネール公の家臣なのね」 「はい、申し遅れました非礼をお許しください、アリアーヌ様。わたくしはコルネール家当主アルヴィーゼ・コルネールの執事、ドミニク・ファビウスと申します」  イオネよりもいくつか年上に見えるが、執事と言うには幾分か若い気がした。  肩まで伸びた栗色の髪は艶やかに結われ、上品で清潔な印象がある。  さすがコルネール家の執事ともなれば、並の貴族よりも高貴に見える。頭の隅でそんなことを思ったが、それどころではない。 「ええ、そうでしょうね、手紙に書いてありました」  目の前にいる青年に当たっても仕方ないと解っていながら、つい棘のある言い方になってしまった。  何しろ、絶縁状態にあるはずの伯父が、この屋敷と周りの土地を勝手に売ってしまったのだ。  手紙には、宛名に書かれていたものと同じく、感情の読み取れない厳めしい筆跡でこう書かれていた。   「拝啓アリアーヌ・クレテ嬢    六月二十五日付けで、貴殿の伯父上エリオス・クレテ公よりこの土地を買い受けた。  間も無く屋敷の普請を開始するので、九月一日迄に荷物を纏めた上、屋敷から立ち退きを願いたい。  普請については執事のドミニク・ファビウスに一任してある。何か不便があれば申し付けられたい。        アルヴィーゼ・T・コルネール」    元々土地と屋敷の所有者がクレテ家当主の伯父であった以上、イオネに拒否権はない。しかし、書面によれば、立ち退きの期限は明日となっている。明日から大学では新学年が始まり、そのための授業の準備をしなければならない。 「だから今すぐには出ていけない。貴方ではなく、コルネール公と直接交渉させて」  内心穏やかではないものの、イオネは表情を崩さずにドミニクに言った。この個人主義者は、他人からの好意や同情を受けるのをひどく嫌い、それと同じくらい自分の弱い部分を見つけられることを嫌がった。  イオネの申し出に、意外にもドミニクは簡単に応じた。 「主人は明日、領地よりこちらに参る予定ですので、その折にお会いする時間を作らせて頂きましょう」  とは言え、イオネにも仕事がある。相手の都合でこちらの予定を決められてしまうのは、何となく癪に障る。 「四時に大学の授業が終わるので、その後こちらのお屋敷に伺います。宜しいですか」 「結構です。主人にはそのようにお伝え致します」  ドミニクはその顔に穏やかな笑みを浮かべたまま、姿勢正しく屋敷へ入って行くイオネを見送った。  一人になると、この事を知らせた後の主人の反応を想像して小さく溜め息をつき、普請中の屋敷の裏手に繋いだ馬を駆って仮宿への帰路についた。
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