三、コルネール屋敷 - la manoir de Corner -

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 イオネがコルネール邸に入ると、いつものようにドミニクが待ち受けていた。 「お引越しはお済みですか?」  鳶色の目を穏やかに細めながら、ドミニクが訊いた。イオネは、ここのところ毎日のように荷物を運ぶ手伝いをしてくれていたこの若い執事に、好感を持ち始めている。あの性根の曲がった主人の執事とは思えないほど気が利いて、真心で接してくれるのである。 「ありがとう、ドミニク。貴方のお陰でようやく片付いたわ」  イオネの口許は相変わらず固いままだが、目元で軽く笑って見せた。 「お役に立てて光栄です、アリアーヌ様。早速お部屋にご案内致します」  屋敷の中に入ると、塗料や真新しい木の匂いに混じって、微かに花の香りがした。内装も既に完成したようで、以前訪れた時に立ち働いていた人夫はすっかりいなくなっている。殺風景だったエントランスには港や船の風景画が幾つか掛けられ、大きな花瓶にデイジーやガーベラなどの花が活けられていた。  広い大理石の階段を上がると、二階の奥へと促された。ドミニクに案内されたイオネの寝室は、以前に通された執務室の二つ隣の部屋だった。  寝室の中は広々としていて、エントランスの雰囲気と同じく華美ではない。装飾は最小限に抑えられ、壁紙も落ち着いた色調のグリーンで上品にまとめられている。  中央に置かれた天蓋付きのベッドは、今朝まで使っていたものの二倍はあるのではないかと思うくらいの大きさだった。今までギシギシと軋む狭いベッドに寝ていたイオネは、果たして今夜このベッドで寝付けるかどうか不安になった。  大きな窓からは陽光が差し、美しく整えられた庭が見えた。部屋の隅には鏡台と机が置かれている。装飾の少ない机は幅が広く表面は滑らかで、とても使いやすそうに思えた。  壁の半分は本棚で埋まり、バシルが整理したイオネの蔵書は、既にこの屋敷の使用人たちによって、本棚にきちんと収められている。いかにも高級そうなエマンシュナ風のクローゼットにも、恐らくあまり多くないイオネの衣装が既に収められている筈だ。  自分の持ち物を全部足しても、このクローゼットの方が余程高価だろうとぼんやり考えていると、ドミニクが声を掛けて来た。 「何かご不便はございませんか?」 「充分過ぎるくらいよ。気に入ったわ」  ベッドが大き過ぎるけど、とは言わなかった。それに、確かに機能的で過ごしやすそうな寝室だ。  そこへ、若い女の使用人が綺麗な礼をして入ってきた。 「男のわたしでは何かと不便でしょうから、アリアーヌ様には本日よりこちらの者がお世話をさせて頂きます」  ドミニクの隣にやって来たのは、暗めの金髪を肩より短くしている、さっぱりした印象の娘だった。 「初めまして、アリアーヌ様。本日よりお世話をさせて頂きます、ソニアと申します」  話し方は溌剌としていて、空色の瞳は利発そうに輝いている。言葉の端にエマンシュナ北部の訛りがあるから、ドミニクと同じく領地にある本邸から移って来たに違いない。  末妹のリディアと同じ年頃だろうかとふと思ったが、よく考えたらイオネには世話係など今まで一度もいたことがなかったので、どう接したら良いのか判らない。  それに、アルヴィーゼに余計な借りを作るようなことはしたくないと思った。 「折角だけど、世話係はわたしには必要ないわ。少しの間、部屋を借りているだけだし、大抵のことは一人でこなせるもの」  イオネがそう言うと、ソニアは表情を曇らせた。 「わたくしではお気に召しませんでしたか?」 「そんな!」  イオネは慌てた。自分の率直な物言いが、時々相手の気持ちを傷つけてしまうことは、昔から自覚している。ソニアにしてみれば、主人から命じられた仕事を始める前に相手から拒否されてしまっては、全く立つ瀬が無いのである。 「貴女のことはむしろ気に入ったの。ただ、コルネール公からはあまりにご厚意を頂いてしまっているものだから、もうこれ以上は甘えられないわ」  厳密には、甘えたくないという所だ。しかし、慎重に言葉を選んで弁解した。すると、ソニアはほっとしたように表情を緩めた。 「そのようなことでしたら、お気になさらないで下さい」  口を開いたのはドミニクだった。 「この屋敷には、アリアーヌ様の他には使用人以外で女性がいらっしゃらないものですから、女たちはみな貴婦人のお世話ができることを楽しみにしております」  イオネは顔をしかめた。確かに貴族の出身だが、暮らしぶりや気性を考えると、自分が貴婦人という部類に入るとは思っていない。  ところがソニアは、ドミニクの隣で「その通りです」と頷いている。  それに――と続けながら、ドミニクは穏やかな目元を僅かに細めた。 「主の強い意向でもございます」  イオネはますます反発したくなったが、ドミニクの言葉には有無を言わせない響きがあった。その上、すっかり彼女が世話係を受け入れると思っているソニアは心底安心したような顔をしている。  結局、反抗を諦めた。飽くまで必要最低限の世話を焼いてくれるように、と言ったが、恐らく必要最低限という条件は無視されるだろう。  今のところ、全てアルヴィーゼの思う通りになってしまっているようで、イオネとしては全く面白くない。    ドミニクが退室すると、ソニアは早速イオネに茶を淹れた。ウェヌス大陸の東の方から渡って来たという茶葉で、貿易国のルメオでも珍しい種類である。  喫すると、面白くない気分が少し和らいだ気がした。濁った緑色をしていて香ばしく、まろやかな苦味がある。 「おいしい」  不意に顔を綻ばせたイオネを見て、ソニアは嬉しそうにしていた。  その後で自宅の床板から取り出した絵を寝室の壁に掛け、まじまじと眺めた。この絵が壁に掛かっているのを見るのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。  リディアはこれを拾ってきたのを母が知れば当然怒るだろうと思っていたようだが、イオネの見解は違っている。そのうち北部のテサラスに暮らすリディアに送ってやろうと思ったが、暫くは手元に置いておくことにした。  父の姿を見るのは久しぶりだ。  明日の授業の準備をしていたら、あっという間に晩餐の時間になった。ソニアに案内されて一階の食堂へ入ると、まず大きなシャンデリアが目を引いた。その他は至ってシンプルだが、カーテンから調度品に至るまで上品で高級感がある。そこに、二人分の席が用意されている。  イオネの足が止まった。 (まさか。――)  あの無礼な男と二人だけの晩餐なのだろうか。もしそうなら、楽しい夕食とは程遠いものになるに違いない。  イオネが食堂の入り口で佇んでいると、訝しげにソニアが声を掛けてきた。 「どうかなさいましたか?」 「他に人はいないの?」  我ながら愚問だ。  完成したばかりの屋敷には、何人かの使用人と主人しかいないはずだ。もし他に屋敷の住人がいるならば、既に居候であるイオネに紹介されているに違いない。迂闊なことに、誰と一緒に夕食を摂るのかなど、考えもしなかった。  イオネは無意識のうちに不安そうな顔になっていた。 「俺と二人は不服か」  イオネより少し遅れてやって来たアルヴィーゼが横から声を掛けて来た。その顔には、あの嘲笑とも取れる笑みを浮かべている。  アルヴィーゼにしてみれば、王族に真っ向から啖呵を切って見せるイオネが、たかだか夕食を共に摂るだけのことをあからさまに嫌がっているのが可笑しくて仕方が無いのだ。  しかし、アルヴィーゼのその様子がイオネの負けん気に火を点けた。 「いいえ、喜んでご一緒するわ」  イオネは顔を上げ、口だけで笑って見せた。   「どういうつもり」  食前酒に口を付けると、イオネが鋭く言った。口許の笑みはとうに消えている。 「何が」 「侍女まで付けてくれなんて頼んだ覚えはないわよ」  厨房の方で給仕を手伝っているソニアには聞こえないよう、声を落とした。  イオネならそう言うだろうとは予想していたが、あまりに予想通り過ぎて、アルヴィーゼは呆れる思いだった。  少なくとも裕福な貴族の出身なら、普通このくらいの好意は軽く受け取って然るべきだろう。 「そう言ってやるな。ソニアは優秀だ」 「問題は貴方よ。わたしは部屋を貸してもらう以外のことは望んでない。ソニアのことは彼女の体面もあるから仕方ないけど、これ以上余計な世話を焼かないで」  アルヴィーゼはついに笑い出した。 「全く強情な女だな。頼んでなくても、好意ぐらい素直に受け取れないのか」  客人に使用人もつけずに不便をさせるなど、それこそ王族の体面が傷つく。貴族の出身なのだからそれぐらいの理解はして欲しい所だ。 「お前よりも生徒たちの方がよほど大人の立ち振る舞いを心得ているんじゃないのか」  と言ってやった。  これにはイオネも腹が立った。彼女は彼女なりの信念を持って生徒を指導しているのだ。自分の仕事ぶりを知らない部外者に口を出されては我慢できない。  怒りのままに鋭くアルヴィーゼを睨みつけた。 「それこそ余計な世話よ」  このまま食堂を出て行こうとした丁度その時、にこにこ顔のソニアが前菜を運んで来たので、イオネはまたもや反抗を諦めた。    夕食はエマンシュナ風の肉料理がメインで、それにルメオで手に入る香辛料が添えられていた。丁寧なことに食後のデザートまで用意され、あまり食に頓着のないイオネは、久しぶりに限界まで食べたという気がした。量はもっと少ない方が有難いが、この屋敷の料理人が一流の腕であることは認めざるを得ない。  夕食の間、アルヴィーゼとの会話は少なかった。相変わらず心を許せないとは感じているが、気を遣う必要もないと思うと、沈黙が苦にならなかった。  しばらく二階のバルコニーでソニアの淹れてくれた茶を呑みながら、翻訳を頼まれている本に目を通した。エマンシュナの東にあるイノイル王国の古い本で、マルス語とは起源の全く異なるイノイルの方言で書かれている。  内容は、異民族の侵攻によって住処を追われた流亡の民が、新大陸へ流れ着き王国を築くという、イノイル王国の伝説である。  読書に気が済むと、ソニアに浴室へ案内して貰い、入浴の準備を始めた。  そこまではよかったのだが、何処から様子を伺っていたのか、いよいよ出番だと言わんばかりに二人の使用人が現れて、ソニアと一緒にイオネの世話を焼き始めたのだ。自分でできるからいい、と言う間も与えられず、くるくると服を脱がされ、身体を洗われ、湯船に沈められた。浴室を出ると、自分では手入れなど殆どしない髪に櫛を入れられ、仕舞いには香油まで塗られる始末だった。    イオネが寝室に戻った時には、身体が疲労感でいっぱいだった。どうもエマンシュナ貴族の屋敷は今までと勝手が違い、身体が着いて行かない。 (さっそく余計な世話を焼かれた)  明日になったらもう一度この屋敷の主に抗議してやろうかと思ったが、使用人たちのイキイキとした表情を思い出すと、恐らく彼女たちは誰に命じられることもなく、自発的にやって来たのだろうという結論に至った。  すっかり考える気力も失ったイオネは、使用人によって着せられた真新しい寝衣に身を包み、ふかふか過ぎるベッドでいつの間にか眠りに落ちた。
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