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一、ユルクスの夏 - Julkus -
マルス大陸の北東に、海に囲まれた小さな貿易国家がある。
ルメオ共和国という。
面積は小さいが、航海のしやすい穏やかな海流と気候に恵まれ、貿易で莫大な利益を得ている。国内に数多くの貿易港を有し、年中絶える事なく夥しい数の交易船が往来する。
船籍はといえば、近隣諸国から東のウェヌス大陸の国々まで多種多様で、港の周りには異国風の建物が多く並び、世界中から集まった商人や船員でごった返している。彼らの肌の色や装いなども様々で、それぞれの言語がそこかしこに飛び交う。自然、ルメオの貿易商人は、マルス大陸の共通語であるマルス語の他、多言語に明るくなくてはならない。
ルメオ共和国は、同盟国であるエマンシュナ王国との国境に近い南西部にその首都ユルクスを置いている。
ユルクスには港町の様な独特の華やかさはないが、政治の中心だけあって、共和国元首邸を始め、領事館や各地方の領主たちが設ける別邸などの豪奢な大邸宅が多く立ち並ぶ。街の中心部には大学や教会の他に、数多くの商店や娯楽施設があり、一大都市の様相を呈している。
ユルクスの夏は暑い。
内陸部の盆地に位置するために、六月頃には海からやってくる熱気が街中に篭り始める。
こうした理由から、ユルクスに住む富裕層は、夏の間は涼しい北部や海風の通る中部への避暑旅行に出かけることが多い。
首都ユルクス大学の語学教師であるイオネ・アリアーヌ・クレテも例外ではない。
冷涼なトーレという港町の出身である彼女は、殊更に蒸し暑いユルクスの夏が苦手である。
そのため、毎年七月に始まる大学の夏期休暇よりもひと月前から研究旅行と称して避暑に出掛けるのが恒例行事になっている。貴族とは言え、本家とは何年も絶縁状態にある。その上、大学からの給金も多くはないので、とても富裕層とは言えない。
しかし、二十一歳という若さながら、普段からあまり仕事以外の外出をせず、自宅でも常に研究や翻訳などの作業に勤しんでいる上、服や宝飾品には興味が湧かないので、給金は使い切れずに貯蓄が増えていく一方である。
当主であった父が亡くなった後に与えられた小さな屋敷は、若い女が一人で住んでいるとは思えない程に簡素で、使い古された質素なテーブルの上に無造作に積まれた分厚い本の山が唯一の装飾品と言える。
彼女の父親はイシドール・クレテと言った。
クレテ家は代々、ルメオ北東部のトーレ地方を治める名門貴族で、イシドールの祖父は共和国建国の祖と呼ばれるイシドロス・クレテである。イシドールは次男ながらも、父親の強い希望で三十歳の時に当主になった。
ルメオの貴族達は土地を治めるだけでなく、家業として貿易商を営む者が多い。共和国憲法で税の取り立てに制限がある上、選挙で貴族院の議員に選出された場合、国からの給金は全く出ない所謂ボランティア制度なので、大貴族と言えど何かと金が入用なのである。
イシドール・クレテも例に漏れず、貿易業を営んでいた。彼は祖父の侠気と政治の才を受け継いだだけでなく、商人としての才能もあった。
トーレ港は貿易大国のルメオの中でも一、二を争う大貿易港で、世界中の品物や人間がやって来る。彼の代でトーレ港はますます大きくなり、トーレ地方の経済は飛躍的に伸びた。
ある時、まだ幼い一番上の娘を港へ連れて行き、外国語を学ばせてみると、予想以上に覚えが早く、二か月経つ頃には、全く違う言語を話すウェヌス大陸の商人と難なく簡単な日常会話が出来るほどになった。この時から、利発な娘にできる限りの教育を施し、社交界でのマナーや立ち振る舞いなどにも人一倍厳しく躾けるようになった。そしてイオネもまた、父の期待を裏切らなかった。
そのイシドール・クレテが急逝したのは、イオネが十四歳の冬だった。当主の座を継いだのは、イシドールの兄エリオスである。未婚のエリオスには子が無かった。
エリオスはイシドールの五人の子の内、唯一の男子である末子キリルを養子に欲しがったが、イシドールの妻デルフィーヌが決して許さなかった。彼女は、エリオスが男色家で、しかも少年を好むことを知っていたのだ。
エリオスが簡単に養子の件を諦めることは無いだろうと踏んだデルフィーヌは、六歳のキリルを遠い親戚にあたる北方貴族のアルバロ家へさっさと養子に出してしまった。キリルは長く子の無かったアルバロ夫妻に温かく迎えられた。
これを知ったエリオスは、デルフィーヌと四人の娘にユルクスの小さな屋敷とイシドールの遺産を与え、トーレから追い出したのである。
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