五、舞踏会 - au bal -

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五、舞踏会 - au bal -

 招待状を受け取ってから数日、イオネは相変わらず大学と翻訳の仕事に追われてバタバタと過ごしていた。  授業の準備は、バシルの手伝いもあって以前よりも早く終わるようになっている。イノイルの伝記の翻訳作業も、ようやく一段落ついたところだ。  アルヴィーゼとバシルはあれ以来顔を合わせていないが、バシルは渋々ながら、少なくとももう無礼な態度は取らないと言ってくれた。  イオネはと言えば、アルヴィーゼと屋敷で顔を合わせる度に相変わらず皮肉の言い合いをしている。バシルの無礼な態度を諌めた割に、自分の態度を変えるつもりは無いのだ。  ブロスキ教授の舞踏会を八日後に控えた日の朝、イオネはドレスを新調する必要があることに気付いた。手持ちのものは既に何度か別の夜会で着てしまい、これ以上使い回すのは気が引けたのである。  イオネがどうしたものかとクローゼットを眺めていると、蜂蜜酒を部屋に持ってきたソニアが尋ねてきた。 「アリアーヌ様、舞踏会のドレスをお選びですか?」 「ええ。ここのところ忙しくてすっかり忘れていたんだけど、ドレスを新調しないといけないわ。間に合うかな…」  普通は招待状を受け取ってすぐにドレスの仕立てを始めなければならないところだが、もとより舞踏会に興味の無いイオネはその事を全く考えていなかったのだ。  果たしてあと八日で仕立てられるだろうか、と腕を組んで考えながらクローゼットを閉めると、顔を輝かせたソニアが思ったよりそばに来ていた。 「宜しければ、わたくしにお任せ頂けませんか?」 「えっ、でも…」  ソニアの勢いに気圧されて、イオネは紫の瞳をぱちぱちさせた。 「大丈夫です。旦那様ではなくアリアーヌ様のご予算でお仕立て致しますから」  もう一か月近く側に仕えているので、ソニアはイオネが何を気にしているのか心得ている。 「わたくし以前は仕立て屋で働いておりましたので、裁縫は得意なんです。お好みのお色や型があれば、その通りにお作り致しますよ」  結局、デザインや色も全てソニアに任せることにした。相変わらず最低限の世話を焼いてくれるようにという条件は無視され続けているが、イオネはこの一か月で、ソニアの好意には素直に甘えるようになっている。  イオネとしては不本意なのだが、ソニアの澄んだ空色の瞳を向けられると、どういうわけかいつも拒否する気が失せてしまうのである。    二日後、起き抜けで布団に包まりながらぼんやりしていたイオネの元へ、ソニアが型紙と色付きのデザイン案を持ってやって来た。 「如何ですか?」  緊張した様子でソニアが訊ねると、イオネは眠気が覚めたように目をぱちくりさせた。 「これ、一日でやったの?」 「はい、でも仲間が手伝ってくれたんですよ。古参のマレーナもアドバイスをくれました」 「すごい…」  ソニアが描いたドレスは、肩まで出る大きな襟口で、高い位置にウエストがくるようになっている。コルセットが嫌いなイオネのために、後方に襞を寄せたボリュームのあるスカートを下に着て、後ろ腰を少し膨らませるような形になっているらしい。  ゴテゴテの豪華な夜会用ドレスではなく、イオネの好きな上品ですっきりしたデザインだった。 「すごく気に入ったわ、ソニア。出来上がりが楽しみ」  イオネが目元を柔らかく緩めて言うと、ソニアは花が咲いたように顔を綻ばせた。  その日の昼下がり、イオネが大学から帰ってくると、ソニアがさっそく生地屋を呼び寄せていた。イオネは荷物を寝室に置く暇も与えれず、一階の客間に引っ張っていかれてしまった。  鏡の前に立たされると、人のよさそうな生地屋の女将によって次々と布が当てられた。隣でソニアが「もっと濃い色はあるか」とか、「こっちの方が顔が映える」とか言いながら神妙な面持ちで生地を選んでいる。  ソニアはどうやら緑色のドレスを作ろうとしているようだ。大まかにイオネの好みを確認しながら、てきぱきと仕事を進めている。  それから三十分もしないうちにソニアは生地を選び終えてしまった。こうしたソニアの仕事振りを間近で見るのは初めてだったので、イオネはその的確さと素早さに目を見張った。  この分なら舞踏会までに、充分すぎるほど素晴らしいドレスが仕上がるだろう。    それから数日が過ぎた夜、イオネはバルコニーで蜂蜜酒を片手に本を読んでいた。  この屋敷に来た時に比べて、気温はずいぶん涼しくなったが、暑がりなイオネには薄地の寝衣にガウンを一枚羽織るだけで事足りる。長い髪は束ねず、全て背中に流している。  蜂蜜酒の用意だけ頼み、ソニアには既に下がってもらった。少し湿気の残る夜の秋風に当たりながら一人で読書をする時間は、イオネの至福のひとつでもある。  その時、バルコニーのガラス戸が開かれた。ソニアが戻ってきたのかと思ってイオネが顔を上げると、手燭と丸めた紙を持ったアルヴィーゼがバルコニーに入ってくるのが見えた。  シャツとズボンだけのラフな格好から察するに、風呂から出てきた後らしい。 「寝酒に蜂蜜酒か」 「何か用?」  せっかく一人でゆっくりしていた所へ水を差されたような気がして、突き放したような言い方になった。  アルヴィーゼは構わずイオネの向かいに座ると、手燭をテーブルに置き、丸まった紙を伸ばし始めた。  色付きの航海図だった。マルス大陸の東部からウェヌス大陸西部までが大きく描かれ、大洋には潮の流れや航海路が記されている。 「意見を聞きたい」  アルヴィーゼはそれだけ言った。イオネは航海図を見ただけで、詳細を把握した。 「貨物は?」 「エマンシュナ製の調度品だ。タペストリー、織物、いちばん大きなものはベッドだな」  必然的に大型の貨物船を使用する事になる。航海図に記された海路は、バイロヌス港から緩やかな海流の北路を取り、ウェヌス大陸のエル・ミエルド帝国へと続いている。 「南路がいいと思うわ」  大型の貨物船は目立つ上に動きが鈍く、海賊に狙われやすい。  イオネは海図に記された北路の辺りで近頃新たに海賊が横行しているということを、休暇の終わりにバイロヌスから乗った新型船の船長から聞いていた。  また、南路を取ると島国アム共和国の領海に入る。アム共和国はその屈強な海軍をもって海域の警備を厳しく行っており、その領域には海賊の侵入が殆ど無いのである。  多少の関税は掛かるものの、北路をとって海賊に狙われる危険を考えれば安いものだ。 「南路は比較的荒れやすい海流だけど、バイロヌスで経験のある船長を選べば全く問題ないはずよ」  イオネは翻訳のメモをする為に持っていたペンで、航海図に走り書きをした。その間アルヴィーゼは、特に表情もなく顎に手を当てて静かにイオネを見ている。 「フラヴァリ公は国営の海軍の他にバイロヌスの自警海軍も組織しているから、この領海までなら安全に航海ができるわ」  と、イオネが顔を上げると、まだ視線が自分の方に向いているのに気づいた。  イオネは、真面目に聞いているのか定かではないアルヴィーゼを咎めるように何か言おうとしたが、先に口を開いたのはアルヴィーゼだった。 「お前は何だっていつもそう薄着なんだ」  アルヴィーゼは眉根に皺を寄せている。イオネは目を丸くした。 「エマンシュナ人と違って寒さには強いの。それより話を聞いてた?」  そんなことを気にされていると思わなかったイオネは、不思議なものを見るような顔で言った。 「男の前に出るという意識はあるのか?」  アルヴィーゼは不機嫌そうな表情になっていた。  しかし、イオネには全くその理由が分からない。それにしても先にバルコニーにいたのはイオネである。アルヴィーゼの前に出ようと思って寝衣を着ていたわけではないのに、あまりに理不尽な言い分ではないか。 「そっちが勝手に入ってきたんじゃない!寝る前ぐらい楽な格好したって別にいいでしょ」    アルヴィーゼは溜め息をついた。  最初は暗がりでよく判らなかったが、向かいに座って海図から顔を上げると、目の前の女がガウンの下にまだ夏物の薄布を着ていることに気付いた。以前も思ったことだが、この女にはあまりに自意識がない。男が暮らす屋敷の中を薄衣でふらふらしているのだ。 「俺は別に構わないが、そう無防備に肌を晒すものではない」 「そんなこと初めて言われた」  年頃の時期を女ばかりの家庭で過ごしたイオネには、まだ理由がよく判らない。この時着ていた寝衣は鎖骨が出るぐらいのもので、暑がりなイオネが持っている寝衣の中では、特別胸元が開いているものではない。  しかし不快感を露わにされたせいで、何となく悪いことをしているような気になり、目を泳がせて叱られた子供のような表情になった。 「ユルクスではこれぐらいが普通だから、貴方が慣れるべきだわ」  すぐに気を取り直していつものように権高な調子で返してやると、アルヴィーゼが立ち上がって近づいてきた。  イオネは状況がよく理解できずにそのままでいると、アルヴィーゼの手が伸びてきて右腕を取られた。アルヴィーゼは立ったまま、イオネを見下ろしている。  手燭の仄かな灯りに照らされたその男の瞳は、イオネが知るものではなかった。 「何よ…」  不安になって、意図したよりも細い声になっていた。座ったまま身を引くと、アルヴィーゼの顔が近づいてくる。柔らかい髪が頬を掠め、右側の首筋に柔らかいものが触れた。  何をされているのかも判らず、びっくりして声を上げるのも忘れていた。思い出したように自由な方の手でアルヴィーゼの肩を押したが、その瞬間首筋に微かな痛みが走った。 「何するの!」  イオネが肩を押す手に力を入れると、アルヴィーゼはすんなり身を離して不敵な笑みを浮かべた。 「身をもって教えてやったんだ」  イオネには全く意味が判らず、呆然と座ったままでいると、アルヴィーゼはテーブルに置かれた蜂蜜酒の入ったイオネのグラスを、おもむろに手に取って一口飲んだ。 「エル・ミエルド産か。旨いな」  ――当然だ。何しろエル・ミエルドの南方で取れる稀少な蜂蜜で作られているのだから。  そんなことを考える呑気さがイオネにはあった。しかしこの狼藉をどう糾弾して良いのやら、混乱した頭では判断できず、目を丸くしたまま固まっていた。 「参考になった」  そう言うと、アルヴィーゼは航海図を纏めてさっさとバルコニーから出て行った。
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