二、国境の領主 - il Duca di Loudeven -

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二、国境の領主 - il Duca di Loudeven -

 翌朝、イオネは教会の鐘の音で目を覚ました。真面目で勤勉なイオネだが、どうも朝は子供の頃から苦手だ。毎朝目を覚ましてから三十分はベッドの上でぼんやりしている。  満足するまでぼんやりした後は、ふらふら食堂へ降りて行き、ゴブレット二杯分の水を飲むと、昨日バシルがくれたバゲットの残りを頬張りながらのろのろ支度を始めた。彼女の嫌いなユルクスの夏は通り過ぎたようで、空気は少し湿っているものの、朝はだいぶ涼しい。食堂の窓を開けると、秋風の匂いがした。  今日から大学に新入生が入ってくる。イオネの受け持つ女学級にも、難関の試験を合格した、知識欲旺盛な生徒たちがやってくるに違いない。  普段なら長い髪を一つに束ねて簡単に済ませる所だが、この日は後頭部の位置で髪をまとめ、上品に結い上げた。それだけで気が引き締まるように思える。  化粧はいつものように薄すぎない程度に仕上げ、桃色の控えめな紅を引いた。ドレスは紺色のスクエアネックで、スカートが広がりすぎない型のものを選ぶ。イオネはこのデザインをいかにも教師らしいと思っている。  首飾りや耳飾りは着けない。肌に金属が纏わり付くのがどうも好きになれないのだ。  唯一彼女が身に着ける宝飾品は、左手の小指に嵌めた指輪だけである。十二歳の誕生日に父から贈られたもので、金の輪の上に、菫の花を象った小さなアメシストが添えられている。  イシドールはしばしば、イオネの珍しい紫色の瞳を菫の花に喩えた。可憐な菫は毒にも薬にもなり得る、偉大な力を秘めた花だとよく聞かされたものだ。  大人の女性の仲間入りだと言ってこの指輪を贈られた時、あまり好きでなかった自分の瞳の色を、初めて悪くないと思えた。    色気のない使い古した仕事用の皮の鞄を持って自宅を出ると、いつの間にか昨日の柵に一人分の出入口が用意されていた。豪邸の普請が今日も既に始まっているらしく、豪邸の方で人夫が立ち働いている。  開け放たれた大きな扉の前で、昨日の作業服の男が指揮をしているのが見えた。男はイオネに気付くと、片手を挙げてにっこり笑って見せた。どうやら出入口は彼が用意してくれたらしい。イオネも軽く礼を返した。    ユルクス大学は、七百年の歴史を持つ名門校の名に相応しく、荘厳な佇まいをしている。壁は赤茶色の分厚い石造りで、ファサードの上部には円窓がある。大きなアーチ型の背の高い門をくぐると、両側に長い廊下が伸び、中央は大理石の広いロビーになっている。  高い天井を見上げると、クーポラの隅に五階まである上階の廊下が見える。更に広大な敷地内には、大学の別棟を始め、造船用の建物や水路、礼拝堂、馬場などが完備されている。  学生の中には、貴族から平民まで様々な階級の者がいるが、その八割が男子である。彼らは皆、経済や建築、造船など、将来の出世に必要な専門知識や技術を身に着けるために、十三歳から十五歳くらいで入学する。  一方女子は、男子禁制の別棟で女学級の授業を受ける。男子生徒の中には、審査に通過して国からの奨学金を貰ったり、必死に学費を貯めたりして入学する平民の青年達も多いが、女学級に通うのは、ほぼ全員が良家の子女達である。入学してくる年齢は男子よりも若く、概ね十歳から十二歳である。  如何に金持ち貴族の子女と言えど、厳しい試験に合格しなければ入学も卒業も許されないので、「ユルクス大学を出ている」というだけで、その後の嫁ぎ先の家格が上がったり、家名に箔が付いたりする。言わば、闘争心と野心を秘めた少女達の登竜門なのだ。  女学級の授業内容は主に、国際社会で必要な美しいマルス語や、その他外国語、社交マナー、ダンスなどであり、それらは全てルメオの上流階級の女性達が教養として身につけるべき科目である。  イオネはそのうち、マルス語と外国語を受け持っている。彼女が十八歳という若さで名門校の教師となり得たのは、完璧なマルス語とその他の多言語に精通していて、しかも貴族として隙の無い立ち振る舞いを心得ている者が、それほどに珍重されるからである。  イオネは別棟の二階にある自分の教室へ入ると、昨夜用意した教本や授業計画の確認を行う。暫くすると、ぞろぞろと三十人程の女生徒が入ってきた。授業は選択制で、最初の一週間は生徒たちが受ける授業を決めるまでの選択期間である。    イオネの授業は厳しい。  彼女は探究心や知識欲の旺盛な学生には、どんな成績であろうと、とことんまで付き合い、授業時間外でも協力を惜しまないが、怠慢は決して許さない。お嬢様の手習い程度の興味ではとても授業に追いつかず、最初の一週間が終わる頃には、残った生徒は一つの授業につき十人程になっている。  しかしその十人は皆、校内でも優秀な成績を修め、厳しく冷徹だと言われる「アリアネ先生」を心から信頼し、尊敬するのである。卒業生の中には、良家の子女でありながら、通訳や翻訳家、特に珍しい例では航海士などの職業に就いた者もいる。三十人の内、何人かはその評判を耳にしてやって来たのだろう。  イオネが年間の授業概要と大まかな学習量、単位認定に求められる水準などを説明すると、何人かを除いて生徒たちがどよめいた。   (さて、今年は何人残るか)  と考えながら、初日の授業を三回分繰り返して、教室を後にした。  今年の新入生たちは、いつもに増して顔つきが凛々しく、イオネが話している間も目を逸らさない者が多かった。 (概ね満足)  自分の授業が終わった後は、教師の立場を利用して本棟の授業へ潜り込む。この日は、建築学の講義にした。選択期間中なので、講義の内容は大まかな概要だけだが、それだけでも楽しめる。権威ある教授たちの講義を聴く事は、イオネの趣味の一つでもある。  別棟と本棟は少し距離があるので、講義室に入った時には既に講義が始まっていた。イオネは生徒たちの邪魔にならないよう、解放された扉に近い一番後ろの席に座った。  暫く講義に聴き入っていると、後ろから声が聞こえた。 「なんだ、女がいるのか」  鼻に抜けるような、爽やかだが深みのある声だった。  イオネは嫌な言い方だと思い、咎めるように振り向いた。  声の主は講義室の扉の外に立っている。  艶やかな黒髪の男で、イオネより少し年上に見える。鼻梁はすっきりとよく通り、切れ長の目をしている。  どことなく精悍な印象があり、稀に見る美丈夫だ。  背が高く、均整の取れた体躯にずいぶん上等な服を纏っていて、恐らく貴族の中でも上流の家格だろうと思われた。何処の誰かは知らないが、少なくとも学生ではない。  それでもイオネは、喧嘩を売られて黙っていられる気性ではない。音もなく立ち上がって講義室から出ると、表情を殺したまま、視線だけ射る様に男に向けて言った。 「聞き捨てならないわ。女が講義を聴いていると何か不都合がありますか?」 「女生徒は別棟の女学級で授業を受けると聞いていたから、不思議に思っただけだ」  男は特に悪びれる様子もない。その深い緑色の目からは感情を読み取る事が出来なかった。  しかし、それよりもイオネには生徒だと思われた事の方が心外だった。  ユルクス大学の教師陣の中では飛び抜けて年若い彼女だが、受け持った生徒は皆素晴らしい成績を修めているし、知識や資質も他の教師達に引けを取らないと思っている。若いからと言って、決して下に見られたくはない。  それに、特に今日は、見た目に出来る限り教師の威厳を表現してきたつもりだった。  つい、声が荒くなった。 「わたしは教師です」 「それは失礼した。名門校の教師にしてはずいぶん幼く見えたので、生徒かと思った」  ――愚弄された。  とはっきり感じた瞬間、カッと顔が熱くなった。  貴方の様な人間がいるから、未だに多くの女性が教育を受けづらいのだ、教育の信念を理解しないのならすぐに大学から出ていけ、と罵ってやりたかったが、男の表情に気付いて何も言えなくなった。  と言うより、燃えるような怒りで言葉も出なかった。  男は笑っていた。  深い緑色の目を細め、左の口の端だけ上げている。  イオネは、それを嘲笑として受け取った。  無意識にドレスの裾を皺になるほど握り締めて男を睨むと、廊下の奥から男の側に、その使用人らしき男が近づいて来るのが見えた。 「では、次の機会に。アリアーヌ嬢」  そう言うと男はイオネに背を向け、使用人を伴って出口へ向かった。 「無礼者に二度会わせる顔は無い!」  その背中を追いかける様に、思わず言葉が口を突いた。  我ながら大人の女性らしからぬ切り返しだと思ったが、大学の教師でも生徒でもないのだから、実際二度と顔を会わせる事は無いだろう。相手が自分の名前を知っていたのを疑問に思う事すらすっかり忘れて、トゲトゲした気分のままで講義に戻った。  その後も気分を上手く切り替える事が出来ず、講義の内容はあまり頭に入ってこなかった。こんなに集中できないのは、初めての事だ。
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