四、青い鷲 - un aigle bleu -

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四、青い鷲 - un aigle bleu -

 イオネのコルネール邸での生活が始まって、二週間が経った。  アルヴィーゼは領地の執務に加えて貿易の仕事にも追われていて、執務室に篭っていない時は概ね客を迎え、商談をしている。  イオネの大学の授業も本格的に始まった。帰宅すると生徒から回収した課題の添削や翌日の準備を行い、夕食後は相変わらず依頼された翻訳の仕事に没頭する毎日である。  そのせいで、この二週間は同じ屋敷に住んでいても二人が顔を合わせることはほとんどなかった。もっともイオネにしてみれば、反りの合わないアルヴィーゼと顔を合わせなくて済むのは有難い事である。    アルヴィーゼ・コルネールのように、わざわざ外国からルメオに拠点を移して貿易事業を拡大しようという者は少なくない。  海流の穏やかなルメオ湾の制海権は勿論ルメオ共和国が握っている上、交易国も多く、他国では禁止されている国との取引もルメオであれば可能なのである。  更に、広大な面積を誇るエマンシュナ王国は騎士道精神に基づく軍事国家的な性格があり、いかに貿易が盛んとは言ってもルメオ共和国ほどのやり易さはない。  海洋国家として貿易で経済を支えてきたイノイル王国やルメオ共和国は、多分に商人的な気質を持ち、合理的で現実的かつ、利益の追求に飽くなき精神を持ち続けているのだ。  無論、それが法律にも反映されている。手広く商業を展開するには正に最適の場所なのである。    この日、アルヴィーゼは早朝からルメオでの貿易拠点となるバイロヌス港へ出掛けた。馬車よりも速いという理由で、共を一人だけ連れ、自慢の青鹿毛を駆った。  バイロヌス港での取引には、バイロヌスの現領主であるブルーノ・フラヴァリの許可が必要である。アルヴィーゼは数か月前に手に入れていた許可証を手に、ブルーノ・フラヴァリの元へ挨拶に行った。  ブルーノ・フラヴァリは、イオネの敬愛するヴィクトル・フラヴァリの息子で、五十代半ばの恰幅の良い男だ。  凡庸だが、篤実で信頼に足る――というのがアルヴィーゼのブルーノ・フラヴァリに対する人物評となった。  バイロヌスでのオフィスとなる建物も完成し、いつでも稼働できる状態になっている。いくつか仕事を片付けた後、現地での仕事を一任している者に後を任せ、軽く夕食を摂った後で帰路に就いた。  ユルクスの屋敷へ戻って来た頃には、既に日付が変わっていた。門でドミニクに迎えられ、すぐに二階の浴室で旅塵を落とした。 「旦那様、今日はもうお休みくださいますように」  浴室から出るなり、ドミニクにぴしゃりと言われてしまった。確かにここの所、仕事にかまけて満足に眠っていない。おまけに、バイロヌスで一泊して来たら如何かというドミニクの提案をにべもなく拒否したばかりである。  アルヴィーゼは口の左端を上げて笑った。 「嫁みたいな奴だな」 「そろそろ本当にご結婚なさったら如何です」  ドミニクは、この主人の皮肉には慣れている。 「必要性を感じない」  またか、とドミニクは溜め息をついて、アルヴィーゼに寝衣を渡した。領主としてはまだ若いが、二十七歳ともなれば身を固めても良い頃である。しかし、外面が良く、社交界の花形でもあるこの主は、数々の浮き名を流しながらも一人の女性を決める気配が全く無いのだ。 「今日はこのまま寝るから、もう下がっていい」 「それでは、おやすみなさいませ。…執務室には行かれませんように」  こういうやり取りの後、時々アルヴィーゼが執務室で仕事を続けながら仮眠を取っていることをドミニクは知っている。いつもより強い口調で釘を刺した。 「今日はやめておく」  本当はこっそり執務室に向かおうとしていたが、一日の半分を馬上で過ごしたせいか、さすがに疲れた。その上、ドミニクが背後で目を光らせている。  アルヴィーゼが仕事を諦めて執務室を通り過ぎると、ドミニクはようやく階段を降りて行ったようだった。  アルヴィーゼは寝室へ向かう途中で、小さな灯りがバルコニーから覗いていることに気付いた。  ガラスの扉越しに、手燭に照らされた柔らかそうな髪が、波を描いてバルコニーのテーブルに零れているのが見える。  扉を開けて近づくと、案の定イオネがテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。長い睫毛が灯りに照らされて、目蓋の下に長い翳を作っている。  顔の横に力なく置かれている右手の下には、イノイル語の古い本があった。すっかり夜風は涼しい季節なのに、目の前で眠りこけている女はどういうわけか真夏に着るような薄布の寝衣だけを身につけている。 「アリアーヌ嬢」  アルヴィーゼは見兼ねて何度か声を掛けたが、イオネは目を覚ます気配が無い。仕方なく抱き上げて寝室へ運ぶことにした。  横抱きにして持ち上げると、その躰は想像していたよりもずいぶん軽かった。薄布の下からやわらかな体温が伝わってくるが、腕や脚は夜気に晒されてひんやりしている。    イオネは船に乗っていた。視界に広がる大海原は、何処と無く生まれ育ったトーレの海に似ている。  何か恐ろしいものから逃れ、新天地を求めて、ずいぶん長い航海をしてきたのだ。何故か判らないが、そう確信できる。  船には大勢の人が乗っていて、中には見慣れた顔がいくつかあった。まだ若い両親と幼い弟妹たち、バシル、大学の生徒たちだった。皆一様に不安そうな顔をしている。  水も食糧も少なくなり、周りには海が広がるばかりで島ひとつ見つからないのだ。暗い絶望が船を覆った。  そこへ、何処からか青い鷲が舞い降りて、舳先にとまった。その瞬間、何故かイオネの胸に安堵と期待が湧き上がった。   「青い鷲…」  声に出したところで、ゆらゆらと身体が揺れているような浮遊感がイオネを夢から現実へ引き戻した。  ローズマリーに似たハーブの香りに包まれ、頬に温かなものが当たっている。  何だか馴染みのある香りだ、とぼんやり薄目を開けると、視界に白いシャツが映り込んできた。 「寝惚けているのか」  ずいぶん近い所から聞こえる声に、ハッと目を覚ました。視線を上げると、不敵な笑みを浮かべたアルヴィーゼの顔がある。 「きゃ、なっ…なに!?」  離れようとしても脚が浮いている。イオネはようやく自分が抱き上げられていることに気付いた。アルヴィーゼから香るローズマリーは、浴室で使う石鹸の香りだった。 「暴れるな」 「おろして!」 「こんな時間にバルコニーで読書とはいい趣味だな。侍女はどうした」 「暑くて目が覚めちゃったから涼んでたの。ソニアにはとっくに下がってもらった。ねえ、おろして」 「どちらにせよ、その格好なら充分涼しいだろう。風邪をひくぞ」 「わたしは暑いの」  目は覚めたのに、降ろされる気配が無い。 「イノイルの伝説か」 「え?」 「青い鷲と寝言を言ってただろう。新天地を求める流亡の民になった夢でも見たか」  アルヴィーゼが声をあげて笑った。  イオネは確かにそんな夢を見た気がするが、まさか寝言を聞かれたとは思わず、顔が熱くなるのを感じた。 「そうよ!もういいから、おろして!」  ようやく足が地面に着いた時、目の前に自分の寝室があった。 「イノイルの伝説を知ってるの?」  ふと気になったことを聞いてみた。  イオネがバルコニーで読んでいたのは、イノイル人の祖が古代に異大陸からマルス大陸へ海を渡ってやって来た、という内容の伝記である。空から舞い降りた青い鷲が、新大陸 ――即ちマルス大陸へ彼らを導いて行く。  ルメオはもちろん、エマンシュナでもイノイル伝説を知っている者は多くない。 「俺にもイノイルの血が流れているからな。子供の頃に歴史書ぐらいは読んだことがある」 (そう言われてみれば、そうか)  エマンシュナの王族にもイノイルの血を引いている者がいることはイオネも知っている。    百年ほど前、エマンシュナ王レオネは、イノイル王国の王女ルミエッタを娶った。ルミエッタ王女はイノイル人特有の漆黒の髪と瞳を持ち、ひときわ異彩を放つ美女であったと伝えられている。  この二人の間に、四人の子が生まれた。このうち一番上の娘であるミネルヴァ王女が、エマンシュナの有力貴族コルネール家に嫁いだのである。即ち、アルヴィーゼの祖母であり、現エマンシュナ王テオドール・レオニードの叔母に当たる。  アルヴィーゼの髪は、マルス大陸の人間には珍しく、闇夜のような漆黒だ。イノイル人の曽祖母から受け継いだ美しい黒髪である。  憧憬にも似た感情がイオネの胸の内に湧き、アルヴィーゼの黒髪に歴史の深淵を垣間見た気がした。 「じゃあこれに、青い鷲の伝説が受け継がれているのね」  黒髪に手を伸ばし、鬢のあたりにそっと触れた。  間を置かず、眉間に皺を寄せたアルヴィーゼがイオネの手首を掴んだ。 「おい」 「えっ、あ…」  イオネは、自分が何をしているのか初めて気付いた。無意識のうちの行動だったのだ。  何かに集中すると一点しか捉えられなくなる性格は自覚しているが、相手の髪に触れるという無作法には、さすがに自分でも呆れてしまう。慌てて手を引っ込めた。 「ごめんなさい」 「誘っているつもりなら、もっと巧くやれ」  アルヴィーゼは嘲笑のような笑みを浮かべている。  イオネはまたしても顔が熱くなった。今度は怒りのせいだった。せっかく謝ったのに侮辱された。そう思った。 「違う!馬鹿にしないで」  アルヴィーゼの手を振りほどくと、そのまま寝室へ入って勢いよく扉を閉めた。 「おやすみ、アリアーヌ嬢」  扉の向こうで笑みを含んだアルヴィーゼの声が聞こえたが、イオネは返事もしないでさっさとベッドに潜り込んだ。 (いやなやつ)  さっさと眠ってしまおうと目を閉じた時、バルコニーで読んでいた本を置いて来たことを思い出したが、さすがにもう部屋を出る気にもなれなかった。  暫くすると、イオネの意識は、またしてもトーレの海を進んで行った。
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