猿谷さん

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 鵺村がこの倉庫で、最後まで残ることはない。必ず後から虎田がやってきてチェックをし、倉庫を二人で出るのだが、今夜は知り合いに不幸があったということで鵺村が管理を任されていた。通常、派遣社員が、まして工場に勤めていない人間が戸締りを行うことはないのだが、今日は休みが多く、他の社員も定時に上がるという話だった。工場は朝が早く、夕方は本社に比べて早くに切り上げる。  鵺村は人けの無くなった工場内の沈黙が倉庫の中にまで広がってきたような感じを受け、心細い気持ちになっていたが、余計なことは考えずに早くここを出ようとそればかり考えていた。しかし自分がこの倉庫の戸締りを任された以上、先ほどの物音の正体を探っておかねばならない。倉庫の外はとっくに音が絶えていた。おそらく、この時刻にこの工場地区にいるのは数人だろう。  暗闇に慣れてきた鵺村の目が、天井からぶら下がった男の後ろ姿を捉えた。 「ひっ」  息を吸い込み言葉が出てこない。気づくと鵺村は半開きのドアの前で腰を抜かしていた。男の浮いた足の下には台座が倒れている。  早く、誰かに知らせなければ。焦る気持ちは身体を震わせるだけで、立つことも悲鳴を上げることもできなかった。人とは本当に驚いたとき、声を上げられないものなんだなと、頭の片隅では冷静に考えた鵺村の耳元で甲高い雄叫びが聞こえた。 「キィィーーーー」  鵺村の悲鳴がその雄叫びと重なったとき、目の前のぶら下がっている男の身体がゆっくりとねじれ、こちらを向いた。飛び出た眼球が鵺村を捉え、口から長く伸びた舌がぬらりと更に鵺村の方に伸びると、鵺村は痙攣を起こして泡を吹いた。気を失う直前に、「だうだにだん」というくぐもった声が後ろから聞こえた気がした。  工場の事務所のソファで目を覚ました鵺村を、虎田は抱き起こして声を掛けた。 「大丈夫か?もう少し休んだら、車で送ってやるから」  そう言って、鵺村から離れて戸棚から茶碗を出している。お茶を入れているらしい。 「俺、倉庫にいたと思うんですけど…」  いきなり首吊り死体を見たとは言えず、起き上がった鵺村は頭を抑えながら虎田に訊いた。 「ああ、倉庫で倒れてた。上から落ちてきた段ポールに当たったんだろ、大丈夫か?」  ダンボール?そんなもの無かったぞ?
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