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慌てて話を遮る。
「人違いだと思います。私、北村ミサキって言うの」
「え?」と目を丸めた彼女の顔は見る見る赤くなる。
「ごめんなさい」
そう言って彼女は深々と頭を下げた。
その時母が戻ってきた。「おまたせ」と言いながらその視線は一瞬、体を二つ折りにした福井カヨに向けられた。
「どうしたの?」
「ああ。なんか、誰かと間違われちゃって」
私たちの会話を耳にした福井カヨがおずおずと顔を上げた。その口から「あ……」と声が漏れた。
「こんにちは、おばさん。ご無沙汰しています」
最初は困惑顔を浮かべていた母だったが、彼女が福井カヨと名乗ると、
「ああ、カヨちゃん。ご無沙汰ね。元気にしてた」
なに?知り合い?どういうこと?そんな思いを込めた眼差しを母に向けた。それに気づいた彼女がチラリとこちらを見る。その瞬間、それまで浮かべていた笑顔がぎこちなく固まった。二人がどんな関係なのか説明してほしかったけど、無言のまま目を逸らせてしまった。
そんな様子には気づかないのか、朗らかに笑いながら福井カヨが訊ねる。
「あ。じゃあもしかして、こちらはエミちゃんのお姉さんですか?」
いやいやいや。私は一人っ子だ。そう言おうとしたのだが、母が「ええ、そうなのよ」と短く答えた。
「なんだ、よく似ているはずだわ……」
福井カヨの口ぶりはもっと話を続けたいように思えた。ところが母はそれを拒むように、
「ごめんなさいね。この後約束があるので急いでいるの。じゃあ、また」
私の手を掴むと、逃げるように玄関に向かう。振り向きもしない。母の顔には悲しみと苦しみと、後悔の念が入り混じったような表情が浮かんでいた。
それを目にした瞬間、唐突に記憶が甦る。
薄暗い森の中で、母は私に言った。
「絶対に後ろを振り返ってはだめよ」
そして私の手を取ると、坂道を下り始める。
母の顔を見上げると、目から涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
どうして振り返っちゃだめなのだろう?
どうしてお母さんは泣いているのだろう?
幼い私は不思議に思いながら、ただ母に手を引かれ、坂道を下っていく。
それはことあるごとに思い出す光景だ。あのときの母の表情と、今私の手を引く母の顔とが重なって見えた。
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