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 それから間もなくのことだった。その日は母が夕食(ディナア)の時刻になってもなかなか広間へと入って来ず、父が不機嫌な声を出していた。僕はふと嫌な予感を覚えたので、母を呼ぶように言い付けられた女中に代わって母の部屋へと向かった。  二、三度とノックをしても母の返事はなかった。それでいよいよ胸騒ぎを覚えた僕は、少しばかり乱暴に部屋のドアに手を掛けた。意外にも呆気なく、扉は開いた。その中に踏み込んだ僕が最初に見たものは、黄昏だった――。  余りにも美しい夏の夕暮れをそんなに感じられたのは、部屋に明かりが灯っていなかったからだろう。そしてその美しい夕焼けを背景に揺れている脚があり、その上には柔らかな婦人のナイトドレスが、更にその上に視線を上げると、青ざめた母の顔がだらしなくぶら下がっていた。血の気のない母の手がだらんと伸びているのを見た時、僕はなぜだか無性にその手を取りたくなったものだ。今、手を伸ばせばあの日、暑い坂道で追った母に追いつけるような――そんな気がしていたのだ。    僕が少し大きくなってから聞いた話だが、僕はある男性に生き写しらしい。あの日、母が僕を連れて向かっていた先はその男の住まいであったということだ。母はそこで男と心中するつもりであったこと、母が男の家に着いた時には男はもう死んでしまっていたこと、それが父の圧力であること等々が、母の遺書にしたためてあったらしい。  今となってはわからないことだけれど、僕の本当の父親は………………誰なのだろうね。  今でも毎年夏が来ると、黄昏の見える部屋へふらりと入ってしまうことがある。そんな時、僕は決まって手を伸ばすのだ。追憶のあの日に、あの日の母に向かって――。
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