騙し合いの結実

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『突然すいません。下の階に越してきた近堂と言います』  去年の三月、彼は突如現れた。今時引っ越しの挨拶なんて隣人ですら控える場合も多いというのに、違う階の人間の元を訪れるなど聞いたことがない。人懐っこそうな目をしているが、本当に危険な人物ほど怪しくは見えないものかもしれない。全面に不信感が表れていたのだろう。彼は苦笑いを浮かべて言った。 『怪しいですよね、俺。実は相山さん……あ、妹さんと同級生で。よくお兄さんのお話を聞いてたもんで』 『志織が俺の話を?』 『はい。妹さんがこのアパートおすすめしてくれたんですよ。安くて近くていいって』  愛想の良い笑顔を浮かべる男を眺め、伊織はしばし思案した。志織とよく話す同級生。顔も悪くない。元彼か、はたまた現在進行形で付き合っている相手か。奔放な妹のころころ変わる相手を今さらどうこう思うことはない、が、下手なことをすると後から何を言われるか。初対面の他人など普段なら冷たくあしらうところだが、最低限の会話は交わしておいたほうが良いだろう。少なくとも最初の警戒心は解けたと判断したのか、どこか緊張した様子だった彼の肩から力が抜けたのが分かった。 『それでわざわざ挨拶まで? なんか悪いね』 『いえ、お話できてよかったです。これ、よかったら、どうぞ』 『どうも』  予想に反して、彼は驚くほど伊織と馬が合った。海外のサッカーリーグで行われる試合を観ることは伊織の数少ない趣味で、それらを網羅するために数種類の有料配信サービスに登録していた。近堂は伊織までとはいかないまでも、かなり詳しい知識の持ち主だった。何本かの試合を共に観終えた頃にはすっかり打ち解けて、以来、彼は伊織の部屋に入り浸るようになった。 『なんかさあ、いい嫁さんになるよ、君は』  夏の終わりだった。ティッシュを取ろうと伊織が腰を上げる前にすかさず箱を差し出してきた彼に、伊織は呆れた。試合観戦しながら近堂の作った料理を食べ、だらだらと酒を飲むというパターンがいつしか出来上がっていた。一人暮らしは初めてだという言葉が真実か疑わしいくらい、彼の料理の腕前はかなりのものだった。 『嫁さん……ですか』 『ん。つうかそんな気ぃ遣わなくていいし。逆に申し訳ないわ』  近堂はじっと黙り込んだ。空になった皿にこびりつくソースを見つめて、珍しく低いトーンで言った。 『相談に乗って貰えませんか』
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