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『忘れられない人がいるんです』
たっぷり三分以上の沈黙の後、近堂はようやく顔を上げた。真っ直ぐに伊織の顔を覗き込む瞳はらしくもなく切なげな色が浮かんでいる。伊織はその絞り出すような声で全てを理解した。伊織と志織は幼い頃双子と間違えられることがよくあった。それほどに二人の顔は似ている。
『……ここ、よく来てたのも、そういうこと?』
『ごめんなさい』
伊織を映す近堂の目は、しかし伊織を映してはいない。何となく裏切られたような気分になった。彼と二人でサッカーの試合を観てああだこうだ言い合うことも、時間を気にせずだらだらと飲み明かすことも、伊織にとっては心地良い時間だったから。その全ては、伊織に見える妹の影を追うためだけのものだったのだ。
『気持ち悪いって、わかってます。わかってるんですけど……あの。相山さんのこと、抱きしめさせてくれませんか?』
『……は?』
一体何が楽しくて、妹の代わりに抱きしめられなければならないのか。殴らなかっただけ褒めてほしい。というかそもそもそんなに志織が好きなら男らしくあいつのところへ行けば良い。そう思ったのに。
『ほんとすいません。でもどうしても、あの、最近もう俺しんどくて、だから――いや。ごめんなさい。何でもないです聞かなかったことにしてください、もうここへは来ないようにしますから、』
『……別に、いいけど』
笑みを貼り付けて早口で謝罪の言葉を連ねる近堂に、気づけばそんなことを言っていた。
『ただ、俺は志織に似てるっちゃ似てるけど、志織にはなれないからな。わかってる?』
『え、あ、はい……それ、は、わかります』
『それでもいいなら、別にいい。いっつも飯作らせて家事手伝ってもらってばっかだし』
『え……本当にいいんですか?』
『ん。ほら』
未だ信じられないといった顔で固まる彼に、両腕を広げてみせる。初めて背中に回された手は可哀相なくらい震えていた。こいつは、そんなにも、志織のことが好きなのだ。本人には告げられないほど。異性の兄弟を本人に重ねてしまうほど。なんて不器用な。熱い胸板から響く心音に耳を澄ませて、何をやっているのだろう、と思った。妹の代わりにこんなことをされて、どうして自分は傷ついているのだろう。伊織はそれ以上考えることをやめた。
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